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コンテンツとコンピテンス

久しぶりに更新する。最近はちょっとバタバタとしていてなかなか手を付けることができず、下書きにタイトルと構成だけ入れて放置するパターンばかり。しかも今日の更新の内容は、これまでたまっている下書きのものじゃないという 笑

僕は北海道の旭川市で大学教員として働いており、経済学者の端くれとして生活している。同時に「常磐ラボ」というコミュニティスペースを運営しており、サードプレイスの重要性を日々確認していく毎日だ。

大学ではもちろん、常磐ラボにも地元の高校生や大学生が来たりするので、どうしても「教育」ということについて深く考えさせられることが多い。大学教員というのは研究者でありつつ教育者でもあらねばならないのだが、その辺のバランスの取り方を教わったことは無いので、いつもスタンスに迷う。最近は、「教育者」に偏ってきている気がしている。

適切な表現を探して

そういう目で教育について見るにつき、やっぱりいろいろと考えてしまう。でもその考えたことをどう表現していいかがよく分からず、もやもやとしていた。

そんな感じで日々を過ごしつつ、ここ最近は毎日その適切な表現について考えていた気がするが、思いついたのは「コンテンツとコンピテンス」ということだった。コンテンツとは内容とか中身とかいう意味だが、こと教育について言うなら「科目」に当たるだろう。一方、コンピテンスとは「能力」のことだ。

今回書きたいことの結論を先に書いてしまえば、「コンテンツ重視の教育はコンピテンスが必要な社会の中でその意義を失いつつある」ということだ。たぶん、内容としてそんなに目新しいものではないし、実感している人も多いと思う。僕は教育学者ではないので専門的なことはよく分からない。でも、このコンテンツとコンピテンスが結びつかない教育現場を間近で見ている者として、自分の言葉で論を進めてみたいと思う。

「なんで勉強しないといけないの?」

この言葉は、本当によく聞く。どこで聞くかというと、上述の常磐ラボだ。常磐ラボではエンむすびの会という学習支援活動を行っている。主催は僕ではないのだが、縁あって参加させてもらっている。未就学児から高校生までいろんな年代の子供たちがくるが、そこで子供たちから出るのがこのセリフというわけだ。おそらくこの記事を読んでいる人の中にも思い当たることは多いだろう。

なんで勉強しないといけないのだろうか。これが150年前なら、きっと明確な答えがあっただろうし、おそらく50年前でもあったはずだ。つまり、勉強することが自分の社会的地位を高めて、それが将来人生を豊かにすると。

これは、つまるところ教育システムに乗って勉強していくことが、社会で生きるのに必要なコンピテンスを高めてくれる役割を果たしていたということだろう。

 教育システムと社会の変化

現在の教育システムは産業革命が始まった19世紀の後半に形作られた。これは、読み書きや基本的な計算、物事を客観的にとらえて理解する論理的思考能力などを養うために意図的に作られたシステムだった。専門科目を専門的な訓練を受けた教師が、決められた時間内に決められた範囲を教える。授業時間はチャイムによって明確に区切られ、ある時間には決められた科目だけを教えられる。

これは、人間をある程度均質なコンピテンスを持つ労働者として育て上げるためのシステムだ。そこではコンテンツ(科目)の役割は明確であり、コンテンツの消化に成功すれば、「その社会で必要とされるコンピテンス」が身につくようになっていた。だから、勉強することが社会的成功を保障してくれると無邪気に信じることができたのだと思う。もちろん、校内暴力や学生運動など既存の教育システムに対する大きな反発はあったが、結局は一過性のものであったし、1990年代前半まで日本経済は順調すぎるほど順調な成長を遂げていたのである。

 「坂の上の雲」が消えた時

1991年のバブル崩壊後、日本の順調な成長の時代は終わりをつげ、失われた20年を経験することになる。日本経済が低迷する原因については著名な経済学者たちがさまざまな研究をしている。ここですべてを取り上げるわけにはいかないが、技術進歩の低迷が大きな要素だということはおそらく間違いない。

明治維新以降、欧米列強に追いつくべく必死に努力してきた日本は、海外の技術と思想を輸入して取り込むことによって急速な成長を遂げた。司馬遼太郎の「坂の上の雲」を追いかけ続けてきたのだ。そして、農村から都市部への大規模な労働移動・戦後のベビーブーム・そして技術進歩などの要因が絡まり合い高度成長期を迎えて、日本はGDPで世界1位となった。でもそこで、「坂の上の雲」は消えてしまった。

 コンピテンスなきコンテンツ

いわば道標のようなものだった「坂の上の雲」が消えてしまったとき、おそらく自分で雲を作りだせるコンピテンスが日本の社会には必要だったのだろう。つまり、何が正解かわからない中で新たな技術進歩に挑戦するメンタリティのようなコンピテンスだ。僕は、そのコンピテンスは「アウトプットを出すこと」でしか培われないのではないかと思っている。それは、読書感想文とかセンター試験とかそういうものでなく、もっと生徒や学生の「やりたい」に基づいたもので、必ずしも点数化できなくてもいい。作曲や彫刻でもいいと思うし、何か機構(ピタゴラスイッチみたいな)でもいい。

何かを表現するためのアウトプット。これは前例のないところから創り出さなければならないものだから、それ自体が挑戦だ。そして、アウトプットを出すためには、強力なインプットが必要になる。当然そのインプットはコンピテンスを鍛えるための学びになるはずだと思うし、そうして鍛えられたコンピテンスが、今の社会には求められているのではないか。自分が行く先を自分で切り拓くコンピテンスは、自分の「やりたい」をベースにしてしか培われないし、それを表現するにはアウトプットが必要だ。教育については素人なので専門知識は無い。だが、そう確信している。

人生を豊かにするためのコンピテンスが社会の変化とともに変わってきたにもかかわらず、残念ながら教育システムの大部分はほとんど変化しないままだ。ゆとり教育(もう見直されたが、誤解の多い制度だったと思う)や総合学習の時間など、僕が義務教育を受けていたころには無かったものがたくさんあるが、それらはすべて「コンテンツをどう調整するか」というコンセプトで導入されたものだ。あくまでも、科目に代表されるコンテンツを消化することとその出来不出来で評価するという構造は変わっていない。それらは結局コンテンツなので、コンピテンスを培うには不十分なものになってしまっている。コンテンツが先に来ると、それをこなすのは作業になってしまう。面白くないのだ。現在の教育を全否定する気はさらさらないし、義務教育の必要性も理解している。でも、それでも、現在の教育システムのコンテンツと生きるのに必要なコンピテンスの間には深刻なギャップがあると思う。コンテンツはあくまで手段であって、教育はコンピテンスを培うことがその大いなる目的のはずだ。

人間だれでも成長願望はあるだろう。成長とは、こなしたコンテンツの数ではなく、培われたコンピテンスの強さで実感するものだ。

要するに、社会が求めるコンピテンスに、教育が与えるコンテンツが対応しきれていないのだろう。

「なんで勉強しないといけないの?」

これは、そんなコンテンツとコンピテンスのギャップを敏感に感じ取っている子供たちからの素朴な疑問なのだろうと思う。

社会の変化は止められないし、止めるべきでもない。ならば、その変化に対応して教育が変化していくのが筋だ(もちろん、今の教育システムはとても高度で洗練されているとは思っている。基本的な学力がなければコンピテンスも育ちにくいだろう。問題は中学生の後半やそれ以降の教育を想定している)。ミネルヴァの梟は黄昏には飛び立たねば、その知恵を人々に届けられない。

社会と教育のギャップを埋めるために

これから常磐ラボではコンピテンスを培う学びの機会を作っていこうと思う。具体的には、先述したように、アウトプットを出すためのインプットを考えていくという取り組みだ。例えば、プログラミングと電子回路の設計をしながら論理的な思考について理解を深めたり、模擬裁判を実際に行うことを目標にディベートをするというのも面白いと思う。英語だけで料理ができるか挑戦したり、スマホで映画を撮ってみるというのも興味深いだろう。

そういうアウトプットのクオリティーを上げていくために教え手になれる人達はこの街には間違いなくいる。そして、こういう一見くだらない、遊びのように見えるアウトプットも、それを遂行するには多くのインプットをしていく必要がある。やれば分かるがプログラミングは極めて論理的で、きちんと書くためには物事の進み方の論理を外してはいけない。また英語で料理をしようと思ったら、絶対に誰かと会話しなければならない。会話ベースの英語は、残念ながら学校の英語の時間では学ぶことが難しい。話すことが難しくても料理しながらなら楽しく学べるだろうし、それが好きなことなら、なんとか表現しようと勉強するだろう。楽しければ学ぼうとするし、本来学ぶことは楽しいことでなければならないはずだ。その楽しさが、意欲につながりコンピテンスを培う培養土になる。

そして、アウトプットを良いものにしていくために必要な自分の考えを表明すること到達点をイメージして作業をロジカルに構成すること、クリエイティブな表現方法を考えること、チームの士気を上げたり、責任感を持つこと、そして意欲を持続させることなどはこれからの社会を生き抜くための重要なコンピテンスだと思う。

楽しみながらインプットをし、コンピテンスを培うという取り組みをしたいと思う生徒・学生や社会人がどれくらいいるかは正直なところよく分からないが、とにかく僕の直感はこれが必要だと確信している。だから、この夏から動く。


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