短編小説:逐電

 Yは全てを捨てた。家族も仕事も金も何もかも。
 すべてが嫌だったわけではない。しかしある朝通勤電車に乗る駅の改札前で携帯を床に投げ落として壊した。そのまま改札を通り会社へ向かうのとは逆の方向に向かう電車に乗った。
 外は雨であった。しかし窓に当たる雨粒の音は電車が走る音にかき消されて消えてしまっていた。
 電車は終点まで乗り継いだ。そこから別の電車に乗り継いでさらに遠くまで行った。携帯はなかったが駅名で自分がどのあたりにいるのかは分かった。それがまたYの気を悪くさせた。
 自分が全く知らない土地に行きたかった。Yはさらに電車を乗り継いで遠くへ向かった。もうどれくらい電車に揺られているのかわからなかった。
 山間の町でYは電車を降りた。電車は行ってしまった。
 Yは駅前をうろうろ歩いた。何をすればいいのかわからなかった。
 駅前にはとても古いと思われる平屋が軒を重ねていた。店らしきものものあった。商店街か何かなのかもしれない。しかし店が開いているのかどうかすら判然としなかった。そもそも人もいない。ここが町なのかどうかすら怪しい気持ちになった。
 やっているのかどうかわからない古い定食屋の扉を開けてみた。横に開く戸だった。たてつけが悪く戸はがたがた鳴った。
 中はふるい木材が電灯の光を反射しないためかとても暗かった。ただ、店はやっているようだった。Yはテーブル席に座り荷物を置き人を待った。
 腰の曲がった老婆がやってきて注文は何にするかと聞いた。Yは時間を確認しようとしたがそれは無意味だと思った。それでビールと定食を頼んだ。
 音のない空間にYだけが取り残された。Yは今会社や家族はどうなっているだろうかと考えたがそれは空気の中に吸い込まれてしまった。人生で初めて一人きりに慣れたような気がして不思議な落ち着きがあった。
 しばらくすると老婆がビールと定食を運んできた。瓶で出てきたビールはたいして冷えていなかったがYはそれを一息に飲み上げた。
 ふと定食を見た。飯茶碗に盛られた白米は乾燥して黄ばんでいた。付け合せのカツはすでに切られていたが見ると身のほとんどが脂身だった。味噌汁は見るからにインスタントだった。
 Yは懐から財布を取り出した。百円玉でビールの瓶に蓋をした。千円札を一枚ずつ乾燥飯とカツの上に置いた。味噌汁の碗の上にも千円札を乗せ内容物が見えないようにした。そして店を出ていった。
 一日だけ行方不明になっていたYは今も東京の小さな学校で教員をしている。Yがいなくなったことについては会社も家族も大して気にかけなかった。携帯が壊れて身動きが取れなくなっていたという言い訳で済んだ。
 Yは今日も働いている。眉間に寄せられた皺が少し緩んだように思う。しかしその分心の中に寄った皺の密度が高くなっているようにも感じられた。
 あの飯屋で感じた落ち着きは本物だったのかかりそめのものだったのか。そのことばかり気にしながらYは今日も学生に向かって自分でもよくわからないことを話してこれで糊口をしのぐのが精いっぱいの人生なのかと自問していた。
 最近Yはアフリカやアマゾン、それにパプアニューギニアや樺太などの本をむさぼるように読んでいる。自分でもその意味は分からないまま。

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