瞬間接着剤(異世界転生小説)
家の戸棚の金具が壊れたので直そうと思って百円ショップに行って瞬間接着剤を買ってレジでお金を払って商品を受け取ったところで俺は異世界に転生した。
異世界に転生するという話はよく聞いていたが、まさか自分が転生するとは思わなかった。
まず視界がぐわんぐわんと周りだし、マーブル模様のぐにゃぐにゃが前方から俺の体を包み込み、おれは個体ではなく液体のように体を波打たせながらそのマーブルの中に取り込まれていった、気がした。
そして気づくと俺は草原に寝転んでいた。動物の糞の匂いがする草原であった。しかし、草の色は見慣れた緑ではなく紫がかっていて、空には太陽か月かわからないが、巨大な星が2つ浮かんでいた。それで俺はここがいせかいだとわかったのである。
草原は山の裾野に広がっていて、前方は遥かなる草原。後方は峻険な山であった。
まず、俺の脳裏を襲ったのは、食い物のことであった。そして、言語のことであった。
周囲に人はいるのだろうか。食べ物はあるのだろうか。もうこうやって異世界に来てしまった以上は、どうにかして生きねばならぬ。それには生きるため誰か協力者がほしいし、ついでに食い物もちゃんとしたい。
しかし、そういう人がいても、意思の疎通ができなければ何にもならぬ。日本語と英語と、あと中国語が少しできるが、そんなものはここでは役に立たないだろう。ジェスチャーだって文化が違えば通じるかわからない。
都合の良い小説とかだと、いきなり言葉が通じてしまったりするが、俺は現実に転生している。そんな甘っちょろいことは起こりっこない。
また1から語学学習かと思うと頭がクラクラするが、まあ、それはあとで考えよう。
とりあえず、自分の体力が残っているうちに文明文化人間食料を探さねばならぬ。
といって、どちらに進んだらいいのかわからない。時間もわからなければ、天体で東西南北を知るにしろここの天体と我が母星地球の上に浮かぶ天体の動きは異なっているだろう。地球の常識はここでは通用しないと思ったほうがいい。
周囲を見渡してみる。風の音がするが、それ以外の音はしない。しかし動物が動いているような気配や様子はない。建造物のようなものもない。
俺はだんだんむかっ腹が立ってきた。
だいたい、異世界に転生される人間はその故あって呼ばれたりするのであって、家に帰ってギターを直してそのあと少しエロサイトを巡回してから寝て明日も嫌な仕事を粛々とこなそうなどという単純で何の才能もないやつが転生させられる所以はないはずだ。
ふざけやがって、と思っていたら、不穏なことになってきた。
ものすごい勢いで、2つの天体が地平線に向かって急降下し始めたのだ。
嫌な予感である。夜になるかもしれない。
異世界といえば魔物や化け物だ。そして魔物や化け物といえば夜に出ると相場が決まっている。このままだと俺は化け物に喰われて死ぬかもしれない。
かといってどこに向かえばいいのかというあてもないのである。どうしたらいいのだ。
と、逡巡逡巡、考えていたら、いつのまにか陽は地平線に落ちた。周囲は暗くなった。空には星が瞬いていたが、大地を照らすほどの光量はない。
もう一度周囲をぐるりと見渡した。
そうしたら、向こうの山裾に灯りが灯っているのがわかった。俺は駆けた。
「ウンジャラホゲーッ!」
まったく何を言っているのかわからない。俺も「何が何だかわかりません」「アイドンノー」などと言ってみたが、向こうにしてみたら、俺も「ウンジャラホゲーッ!」としか聞こえないだろう。だから言葉は大切なのだ。
ただ、ジェスチャーによって、俺は腹が減っていること、ここがどこかわからないこと、助けてほしいことは伝えることができた。原始的な作りのテントの前で焚き火をして料理を作っていたじいさんは、俺に何だかよくわからない材料が入った汁物の碗を出してくれた。
何にせよ食べないよりかは食べた方がいい。うまくもまずくもない。というのも、俺は生粋の日本人。出汁文化に慣れすぎているので、出汁っ気がない料理は何を食べても「ウンジャラホゲーッ!」なのである。
食事をご馳走になってありがたく、その気持ちを伝えたいと、頭を深々と下げながら俺は「ごちそうさまでした」とじいさんに言ったが、これもウンジャラ語になってしまうのだろうから深いことは考えない。
じいさんは手招きをして、俺をテントに入れてくれた、狭いテントでじいさんと2人きりで寝ることになったが、やはり夜になって寒くなってきた野外で寝ることにならなくてよかった。
翌朝起きると、また空に2つの天体が浮かんでいた。よく見ると1つは橙色と茶色の並々の模様で、もうひとつは煌々と輝いている。そちらが太陽で、もうひとつは惑星か衛星か何かなのかと見当をつけて今日はどうするかと思っていると、じいさんがウンジャラ語で何か伝えようとしてきた。
おれはさっぱりわからないので、わかったような顔だけしてふんふんうなずいていたら、じいさんはテントをたたみ始めたので、俺もそれを手伝った。
そして、荷物の整理が終わると、俺とじいさんはわけて荷物を持ち、旅立つことにしたのである。どこに行くのか、俺はさっぱりわからないままで。
長い旅だった。俺たちの進む道は基本的には山裾の、森林と草原の境となる原野だった。なぜならそこにはたくさんの川が流れており、川の中には魚がいるし、時には地球にはいないであろう種の哺乳動物らしきものがいて、じいさんはボウガンのようなものを使って、食料用にそれを狩ったりすることができたからだ。
俺とじいさんはよく話した。最初はまったくわからなかったウンジャラ語も、片言で少し理解ができるようになってきた。
「お前はどこからきたのだ」
「私はここではないところから来た」
「それはどこだ」
「説明ができぬ」
「もっとウンジャラ語を学べ」
「あなたも日本語を学べ」
「狩りも学べ」
「あなたも読み書きを学べ」
じいさんは話すことはできたが、書くことはできなかった。だから俺がじいさんの言うウンジャラ語を逐一メモにとって見返しているのを、不思議そうに見ていた。
しかし、不自由というのは発明の母である。一月もじいさんと旅を続けた俺は、この世界で生きる術を身につけていった。
まず、この世界は一日24時間ではない。時計で測ったところ、大体20時間くらいで1日がめぐる。これにはなかなか慣れなかった。
食べ物については、生態系は地球とほぼほぼ同じである。動物と植物の食物連鎖があり、じいさんにも近付いてはいけない動物がいると教わった。クマみたいなものだ。ちなみに魔物とか化け物の類はいなかった。
じいさんが着ているものは、きちんとした布で織られた服であった。動物の皮とかではない。じいさん曰く、もう少し行けば町があり、そこには市場のようなものも立つそうである。これで俺は希望を持ち直した。
それからトイレ。その辺でする。紙はない。最初は慣れなかったが、紙はない。ないものはないのだ。今ではどうにかなっているのだから、慣れはすごい。
現代の女子高生など、こんな生活をやってみろと言われたら首でもくくるかもしれないが、過去に生きた若い女性たちは不便の中でも生活していたのだ。ああだこうだいうやつは、こうやって転生したらすぐに人生おじゃんである。生きるためには捨てねばならんこともあるのだ。
ちなみに、俺の方も、じいさんの生活の助けになるようなことはどんどん伝えていった。そのたびにじいさんはいちいち驚き感動し、俺をほめた。
まあ、元の世界だと普通のことなんだけれど、改めてほめられると悪い気はしない。
と、とうとう長い山脈の山裾を抜ける時が来た。
視界の向こう、広大な草原の真ん中に、かなりの量の家々のかたまりが見えた。
もうこの時には、俺はじいさんとかなりハイレベルな会話を交わせるようになってきていた。
「じいさん、あれが町?」
「そうだ」
「女いる?」
「人間の半分は女だ」
「やっぱりそうなんだ。俺、この世界男しかいないとかだったら本気で出家しようかと思ってたよ」
「僧侶になるには徳がいる」
「徳って俺なんか徳の塊だよ。じいさんの手伝いしてさ」
「お前を助けたのは誰だと思っているのだ」
「いやマジじいさんにはスーパー感謝してる」
そんなことを言いながら、俺たちは町に入ったのであった。
町中の人々がじいさんの帰りを歓待した。
みんなでじいさんに走り寄り、膝を地面に擦り付けて「よくぞお帰りで」とか言っている。泣いている人もいる。どうしたというのだ(可愛い子も結構いるぞ。化粧してくれればいいのに)。
そしてじいさんが連れてきた俺をじろじろ見ている。そりゃそうだ。俺は町のひとが着ているような布切れでできた服は着ていないし、顔の作りもみんなと違う。でも、人間外見で判断してはいけないと思うな。だいたい俺は転生してきた異界の人間なんだから。
と思ったら、じいさんが俺の考えていることをそのまま言った。
「こやつはコレガ山の麓でわしに助けを求めてきた人間じゃ。おそらく異界の者であろう。わしの知らない知識や知恵をたくさん持っておる」
「コレガ山? それでは、この者が神の遣わされた使者というわけでございますか」
「わからん。こやつは学はあるがこの世界についての知識がまったくない。故に神が遣わした者か、ただ世界の歪みから出てきただけの者なのか、わしにも見当がつかん」
「大賢人でも使者かどうかわからぬとは、はたまた困ったことになった」
「大賢人?」
じいさんを囲んでいた人々全員がこちらを向いた。俺が初めて口を開いたからだろう。
しばらく周囲はしんとしていたが、体の細い聡明そうなの女性が俺の前にずんずん歩いてきて俺に聞いた。
「言葉はわかるのか」
「えーと、ああ。じいさんに教わったから、それなりに」
「じいさんではない。大賢人ヤセガ様だ」
「大賢人って何ですか」
「大いなる知恵者だ」
「じいさん、文字も書けないのに」
「賢人の知恵は脳に刻み込まれている。文字は必要ない」
「まあそれはいいんだけど、大賢人って何をする人?」
「我々を導いてくれる」
「どこに?」
「平和な世界だ」
「……ということは?」
エルマという女性が語るには、こういうことであった。
かつて、魔大戦という戦いがあった。
昔からこの大地(星?)はすべてが実り豊かで、人は平和に暮らしていた。
しかし、ちょうど100年前に太陽の光が弱くなり、それから凶作や生物種の絶滅が続いた。
人間たちは生きるために協力をしたが、悪の道に走り、盗みや殺しによって生き延びる者も多かった。
そして、悪に染まった心を持った人間の体が、植物や動物のように異形の形となる現象が起こり始めた。人間たちは彼らをケルナイと呼んだ。
そして、人々は他の地域に比べ、太陽の光が集まりやすく、何とか食料を生産することができる聖地・マアツヒを巡り、人間とケルナイが攻防を繰り広げた。
結果、双方で生き残った者はほとんどおらず、その後太陽の恵みは戻ってきたが(おそらく星野のめぐり、つまり公転の作用で極端に太陽光が減る時期があるのだろう)人々はまだ彼らを追ってくるケルナイから逃れ、戦いながら暮らしているというのである。今でもまだ、ケルナイの侵攻によって滅ぼされる村や、食い殺される人々も多くいるという。
俺は言った。
「じゃあ、逃げっぱなしでいいのかよ! 戦わなくていいのかよ! 倒さなくていいのかよ! 食べられちゃっていいのかよ! (特に若い美女!)」
「それは、我々もケルナイに対抗したい。しかし、彼らは念動力や高速飛行などの異能の力を持ち、それにたちうちできないのだ」
「こっちに武器はないのか?」
……とはいっても、素人目に見ても彼らの文明のレベルは高くない。奈良時代、いや、大和、飛鳥時代に達しているか否かかもしれない。仏像を作れないのに化け物を倒せというのは酷だ。
しかし、「あ」。
俺は、いいことを思いついたのだった。
瞬間接着剤とは、対象物を瞬間的に接着する接着剤である。代表的な瞬間接着剤としては、有機化合物のシアノアクリレートを主成分としたシアノアクリレート系瞬間接着剤がある。
シアノアクリレート系瞬間接着剤は、対象物の片面に点状に付け、もう片方の対象物に押し付け広げられるとすぐに、空気中などの水分に瞬間的に反応して硬化し接着する。さらっとした水状のものや、ゼリー状のものがある。
シアノアクリレートは一般にはモノマーの状態であり、水のような粘性の低い液体であるが、接着するものに付着しているほんのわずかな水分によってシアノアクリレートが瞬間的に重合を開始し、ポリマーとなって一瞬で接着される。汎用品も金属用品も主成分はシアノアクリレート100%と記されているが、実際には1%に満たない各種成分が添加されており、これが用途別の特性を生み出している。また、接着時に硬化促進剤(主成分はトルイジン)を使用することで通常よりも短時間で強力に接着することができる。
Wikipediaで何でも調べるタイプの俺は、この世界に転生する前、まさに100円ショップに行く前に、Wikipediaでこの記事を調べて出力し、読みながら店に向かっていたのだった。長旅の中、ポケットに入れっぱなしにしていたのでボロボロになってはいたが、まだ読める。
瞬間接着剤を大量に作って噴射できるようにして、そのケルナイとかいいう化け物どもにブシャーっとやれば、勝てるんではないのか。
と、おれはじいさんに聞いてみた。じいさんは、「シュンカンセッチャクザイ?」という顔をしているので、おれは実際その物をポケットから出して、そこいらに置いてあった木材に接着剤を塗ってくっつけて浮かせてぶんぶん振り回していかに接着剤が強固な粘着力を持ちそれが武器になり得るかをみんなに見せた。
一斉に村人全員が拍手喝采をした。
「使徒だ。神の使徒だ!」
「何という英知!」
「大賢人の目に狂いはなかった!」
「父よ、母よ、妹よ!」
またそうやってほめる。そういうことされるとこっちもいい気になってしまう。ありがとうありがとうありがとう。
すると、エルマが俺に問うてきた。
「して、あなた様の御名は」
「あー、えー。うーん。えーと。あ! あれあれ。あれ。私の名前は、アロン。アロン・アルファーという」
しかし懸念はあった。この世界に、瞬間接着剤を作るための化学化合物なんてあるのだろうか。
と大賢人に聞いたら、「ある」ということだった。いや、「ある」というか、じいさんがおれの説明を聞いて「作った」というのが本当のところであるのだが。
このじいさんは、文字は書けないのだが、実は本当に頭の中の演算能力がスーパーコンピューター並みにすごく、あんなボロを着ていていい人ではなかったのである。あのコレガ山の麓に野営していたのも、天体の満ち欠けから、あの辺に俺が転生してくるのを計算していたそうだ。もし地球に行ったらじいさんノーベル賞千回もらえるよ。
ということで、人々が暮らす他の町にも伝令が走り、人間たち全員での瞬間接着剤の大量生産が始まった。
これをケルナイたちに噴霧すれば、動きは取れなくなり絶命する。もしかしたら銃とかの作り方を俺が知っていればよかったのかもしれないが、話を聞くに、ケルナイは生命力が高く、ちょっとやそっとの攻撃では倒せないらしい。
それならば、体の自由を奪ってしまう攻撃方法が適しているわけである。
瞬間接着剤を詰め込んだポンプ型噴射器。
左右の腰に代替カートリッジ。
噴霧した薬剤が目に入らないようにゴーグルをつける。
この装備を持って、俺たちはケルナイとの幾度もの戦いを勝ち抜いてきた。
そしてとうとう、今日が最後の日だ。
目の前には、ケルナイの最後の一軍が立て籠る岩の砦がそびえている。
俺は鬨の声をあげた。
「行け! 噴霧開始だ!」
人々は前進し、砦の中に瞬間接着剤を噴射する。
五感をやられて砦から飛び出してくるケルナイたち。人々はそれをまた狙い撃ちにしていく。空を飛ぶ羽を持つケルナイは地に落ち、火を噴くケルナイは口を接着されて呼吸ができず悶絶する。
こうして、俺が異世界から持ち込んだたった一つの武器、瞬間接着剤によって異形の悪はすべて滅び、異界の平和は保たれたのである。
そして、人同士の殺し合いが始まった。
余った瞬間接着剤は、人から人の心を奪った。
気に入らない相手の口を塞ぐために使われた。
自分を愛さない女を椅子に接着して身動きをさせずに家に据え付けた。
他人の家の農耕具を固めて使えなくした。
家畜を泥棒から守るため、柱にその体を張り付けて動けなくした。
大賢人は失意の中、自らの命を絶った。
俺? 俺は今、コレガ山の麓で、一人で暮らしている。
することなど何もない。ただ、もう一度転生が叶い、もとの世界に戻れるのであれば、ここなのではないかという曖昧な期待のもと、ここにいるだけだ。
それももう諦めつつある。大賢人もいないわけだから、そんなことがまた起こるのか、誰に聞くこともできない。
一番近いあの町までも、一月以上もかかる場所だ。誰も尋ねてはこない。一年に一度くらい、あのエルマという女性が現れて、町の様子を伝え、俺の様子を見にくるくらいだ。人間の数は、ケルナイたちが跋扈していたあの時代より、さらに減っているそうだ。黄昏の時代。このまま人は滅びるのだろうか。そのといに、エルマは返事をしなかった。ただ、私の腕の中で泣きながら眠った。
たまに思うことがある。
「なんで俺、瞬間接着剤なんか持ってきちゃったんだろう」
「他にも、人の心をくっつけて、ケルナイたちと戦うすべはあったのかもしれなかったのにな」
「じいさんにもわるいことしたな」
そんなわたしも、もうすぐじいさんである。
転生なんか、するもんじゃあない……。
嘆いてもどうしようもない。俺が悪いわけじゃないんだから。
俺は毎日、手元にある最後の瞬間接着剤を、飲み下そうかどうか、迷っているーー。
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