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楽園をつくった男の思い出と『夢の家』

 夏になると思い出す話。『楽園をつくった男』

僕と沖縄

 僕は沖縄が好きで、20年近くは沖縄に通い続けています。ほぼコーチング歴とイコール。

 それにはもちろん関係があって、僕はコーチングに出会う前は仕事人間だったわけです。「有給?何それ?食べれるの?」みたいな感じだったんです。

 コーチングスクールに通い始めて4ヶ月目に、クラスメイトに誘われた『小布施見にマラソン』。それと絡めて皆んなで遊ぶために有給とったのが初めてでした。

 コーチングの世界で出会った人たちは、みんな人生楽しんでるし、

 「だいじゅはどんな人生行きたいの?」
 「今やってることは、だいじゅのやりたいことなの?」

 とか問いかけてきます。それで

 「うーん。ずっと仕事しかしてない。。。これでいいのか。。。。」

 と悩んでいたら、ある先輩が『ラフティング』に誘ってくれました。


ラフティング

 ちょっと興味はあったのですが、当時の僕は「でも俺コミュ力低いし、知らない人とラフティングとか無理だな」って思って断りました。でもそのことがきっかけになったんですよね。

 「こんな風に断り続けてたら、何にも新しいこと始められないな。。。せめて自分で何かを始めよう。。。とりあえずはどっかに行ってみよう」

 そう思って、夏休みにとりあえず沖縄行きのチケットを取ってみたのです。往復飛行機と初日のホテルだけ。たしか4泊5日でした。

 とりあえず、初日はモノレールで首里城に行って、沖縄そば食べて、タクシーで斎場御嶽(せーふぁーうたき)に行って、那覇の居酒屋で夕飯食べて、ホテルで寝る。翌日は、中城(なかぐすく)城跡にバスで行って、帰ってきて、そうしたらもう別にやりたいことがない。めっちゃ暑かったし。。。。

 しかたなく国際通りのスタバに入ってパソコン開いたら、仕事をし始めちゃった(笑)

 これはダメだと思って、とにかくどこかへ行こう、と思いました。北部に行ってみるかな、水族館とか一人で行ってもな。。。。
南部だとどこに行けるのかな。。。。姫百合の塔。。。なんか今行くとどんどん暗い気持ちになりそうだな。。。。どうしよう。。。

 本当は海に行きたかったけど、一人でビーチに行ってもなぁ。。。とか思っている陰キャ新人コーチの目についたのが、離島だったんです。

 那覇からフェリー(もしくは高速船)で1時間以内で行ける島がある!!しかもダイビングの聖地でめっちゃ海が綺麗らしい!!

 これは行くしかない!!

 ということで、いくつかの宿に電話をしてみて、泊まれるところを見つけました。

 そうして出会ったのが、渡嘉敷島(慶良間諸島)なのです。

 ゆっくり流れる時間。穏やかでも人懐っこい人たち。美しく静かなビーチ。泳いでもよし、もぐってもよし、釣りをしてもよし。でも、とくに何にもしなくても幸せにいられる時間がありました。

 僕はこの島にハマって、この後は毎年通い詰めることになります。集落の人たちとも仲良くなって、やっと自分の居場所が見つかった感。

 自分にとって大切な場所というのは、どんなタイミングで見つかるかわかりませんね。

最近はこどもたちとも

 でも、最初に渡嘉敷島を訪れたときに、僕は思ったのです。

「もっと良い島もあるのではないか?」

 それはそうですよね。たまたま宿が取れたから訪れた島にすぎなかったわけです。他の島にはいったことがなかったのです。他にはどんな島があるんだろう!!

 ということで僕はこれを機にアイランドホッパーになりました。

アイランドホッピング

 かっこつけずに言うと離島めぐりですね。本島よりかなり台湾よりの八重山諸島にも行ってみました。八重山諸島はたくさんの島を船で行き来できますから、それぞれの島の魅力を堪能できます。

 有人最南端の波照間島も最高でしたが、僕がハマったのが西表(いりおもて)島でした。とても大きな島で、手付かずの自然が多く残っています。西表にも何度も訪れました。ジャングルの中に入っていけば、人工的なものが一切ない時間空間の中で過ごすことができます。マングローブの川でルアーフィッシングしたり、滝で遊んだり楽しくて仕方ない。

 そんな西表島の横に、小さな島がありました。由布島。歩いてもいけるくらいの近さで、浅瀬でつながっているから、水牛車で送ってくれるらしい。無人島だけど熱帯植物園になっているらしい。

 「せっかくここまで来たんだから、ちょっと寄ってみるか」

 そんな気楽な気持ちで、訪れたのです。たくさんの水牛と植物園。あとはお土産屋さん。。。見て回っても1時間もしない島でした。

 取り立てて、何かが印象に残ったわけでもなく、スタンプラリー気分で島めぐりをしていた僕としては、行ったことある島が一つ増えたくらいの気持ちで、由布島を後にしました。

 そして石垣空港から那覇に到着。夜、ホテルの近くに泡盛バーを見つけて、一人カウンターに座りました。そして、旅の思い出に浸りながら、一杯やっているときに、ふと目に入ったのがカウンター横に並んでいる本。(タイトル画の写真がそれです)

 『楽園をつくった男』というタイトルの本が目に止まり、手にとってみました。パラパラめくると驚いたことに、それは、さきほどまでいた由布島の開拓史だったのです。

楽園をつくった男

 八重山諸島の中心であった竹富島では生活していくのが厳しかった男が、家族を置いて、単身で由布島の開拓におもむきます。

 戦後すぐの貧しい時代のことです。自然の猛威と戦いながら、ジャングルを切り開いていくのです。小さな島ではあっても、人力だけで開拓するのは困難を極めます。そしてようやく農地を整備し、家族をよんで暮らし始めますが、大変なことは続きます。

 農地を開拓するために大枚はたいて買ってきた水牛が病気になり、その世話をしているうちに、お父さんも病気になります。高い薬を手にいれるお金もありません。せめて栄養を取らせたかった家族は、まだ小さかった息子さんの飼い犬をこっそりと始末し、スープにしてお父さんに飲ませるのです。

 お父さんは元気になりますが、息子はいなくなった犬を毎日探し続けます。不憫に思ったお姉ちゃんが、何も言わずに男の子の手を引いて、ジャングルの中のとある場所に連れていきます。

 そこで男の子は気づくのです。ここは愛犬のお墓なのだと。お父さんが元気になったのは、愛犬のおかげだったのだと。そして言葉にならない涙を流すのです。

 読みながら僕も、泣いていました。まさかあんなに小さな島、いまなら重機をつかえば、あっという間に平地にできそうな島に、そんなドラマがあったなんて。。。。

 物語は続きます。小さな島ですが多くの人が移住してきて、一時期は小学校もできたりしました。でも度重なる台風で、なんども建物は破壊され、人々は対岸の西表島へと新天地を求めて移っていったそうです。

 そうでなくても、小学校までしかありませんから、子どもたちはいずれ島の外に出て行くことになります。「楽園をつくった男」の子どもたちもそうで、すでに出ていった上の兄弟を頼って、島を離れていくのです。

 でも男は島を出て行きません。いつか子どもたちが故郷に帰ってきた日に、自分たちの島を素晴らしい場所だと思ってもらいたい。その思いで、島にヤシの木を植え続けていたのです。そうするうちに男はいつか「おじい」になっていました。

 あるとき島に見知らぬ男がやってきました、場違いのコートなど着ていて、どこか遠くから来たようです。

 おじいが声をかけても、その男は自分が何者なのか語りません。でもおじいは、その男を家に泊めてやります。男は翌日から、おじいの手伝いを始め、一緒にヤシの木を植えるようになるのです。

 それからしばらくの時が経ち、テレビ局が島の取材をしたいと言ってきました。返還後の沖縄ブームの中で、珍しい島があることを知った人が取材したがっていたのです。

 おじいは最初断りましたが、おばあの「本土にいった子どもたちが見るかもしれないじゃないか」という言葉に取材を受けることにしました。

 そして、その番組が放映された後、今度は怪しい二人組が島にやってくるのです。そして、おじいと一緒に仕事をするようになっていた男と揉めています。

 おじいが止めに入ると、二人組は警察手帳を出しました。そして「こいつは横領の指名手配犯だ」というのです。テレビ番組に映っているのが見つかり通報されたようなのです。

 おじいは「こいつはそんなことはしない」といって庇いますが、男は連れていかれます。おじいは「こんなことならテレビの取材なんて受けるんじゃなかった」と言って嘆くのです。

 そうしてまた、孤独に島を開拓する日々が続いていきます。ところが数年後、刑期を終えたその男はまた島に戻ってきて「また一緒に働かせてほしい」といっておじいを手伝うのです。

 そうやって開拓されていってできたのが、あの植物園だったのです。

 なんというドラマでしょうか。あの島にそんな歴史があったなんて!!僕は何も知らないまま「何もない島だな」とおもって通り過ぎただけでした。

 居ても立っても居られない状態になった僕は、旅程を変更して、翌朝の飛行機で、また石垣島に戻り、西表島へ、そして由布島へと向かいました。

 もう一度あるいてみたら、島が全然違って見える。一人の男が、家族を養うために、単身乗り込み必死で開拓した島。あの犬のお墓はどの辺りだったんだろう。。。今は門だけが残っている小学校跡。そして大量のヤシの木。。。

 小さな島だけど、一人の人間が人生をかけて開拓した島。この島を楽園にしたかった人間がつくりあげた楽園。。。。そして

 「いま、自分は、あのおじいの夢の中にいるんだ」

 そう思いました。「おじいが描いた夢。その夢が創った世界に僕は立っている」

 心が震えました。このことを体験するために、わざわざまた数百キロの道のりをやってきたんだと思いました。

夢の家に住む私たち

 そして、再び飛行機にのって、那覇空港へと戻ります。空から那覇をみた時に、驚きました。

 何と大きな街だろう!!ここだって、遠い昔は何もなかったはずだ。たくさんの人がこの場所を開拓して、そしてこの街が生まれた!!

 どれだけの人が、どれだけの時間をかけて、この街ができたのだろう!!

 そのことを思うと、感動が止まりませんでした。普通の街なんてない。全ては、そこで生きようとした人たちが、人生をかけて作り上げてきた街。

 誰かが描いた夢が、実際の家となる。そしてその家で育った人が、あらたに夢を描き、また家を建てる。そうか

 僕たちは、夢の家が建てられては壊されてできた地層の上にたつ、夢の家にいま住んでいるんだ。そして僕たちはまた、その上に夢の家を建てるんだ。

 こんな場所があったら、みんなにとっていいんじゃないか?みんなでこんなことができる場所をつくったらどうだろう?

 そんな風に誰かが考えてつくってくれた「夢の家」に住む僕たちも、未来の人たちのために思い描いた「夢の家」を創っていくんだ。

 それを助けるのがコーチングじゃないか!!あたらしい街、あたらしい世界を作るんだ。そんな風に続いてきた人類の営みを促進するんだ。

 目の前に広がる那覇の街並みをみながら、そんなことを思ったのです。それ以来、どこにでかけても、その街の歴史を思います。そこに生きた人々を思います。私たちはその夢の地層の上に立っている。そのうえにどんな夢の家を建てたいか?どんな世界にしたいのか?それを一緒に考えたいのです。


  ※『楽園をつくった男』の内容に関しては、うろ覚えのまま書いているので不正確であろうことをお断りしておきます。かわりといってはなんですが昔の由布島が紹介されているビデオがありましたので、よかったらどうぞ

 

僕たちと、夢の家をつくるコーチングを実践したいかたは


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