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恵みによって 24

藤林邦夫の3分メッセージ(『生きる楽しみ』1991年版、pp.33-34。)

教会ではよく、恵みによって、と言います。恵みによって、今日あるを得ている、とパウロも言っています。何か奉仕をした時でも、恵みによってさせて頂いたという訳です。

では、恵みによって、とは、どういうことなのでしょうか?

ちょっと、話を変えまして、中国に老子という人がおりました。
この人物は、孔子でさえも、シャッポを脱ぎまして、

「彼は龍である。端倪(たんげい)すべからず 」

と言った大人物です。[1]

老子は

「つま立つ者は立たず、またぐ者は行かず……自ら誇る者は功なく……」

と語っています。

つま先立ちで立っていて、ことさら背を高く見せようとしても、長時間、その姿勢でいることはできない。また、大股で歩いて、早く行こうとしても、そう遠くまでいけない。自分の功績を誇る者は、その功績も消え失せる。

まあ、こういう意味です。

ムリは続かないというのは明らかですし、自分を出すと嫌みになるのもハッキリしています。

恵みによって、というのは、つま先でも、大股でもなく、普通に歩くということではありませんか?

得てして私たちは、さあ、頑張らなくっちゃ、と張り切るのですが、やり出すと、やっていない人が気になって裁いたり、やっていない時は、やっている人を冷ややかに見てしまったりする。どうも情けないことですが、そういうところがあります。

つまり、自分というものが先にあると、そこにはガンバリズムがあっても、恵みが無い。何ができても、できなくても、神様のお恵みだと思えば、誇らず、他を気にせずにすむのです。

このテレフォン・メッセージも、恵みによってさせて頂いております。


[1]  端倪すべからず……容易に推し量ることができないほどの器量を持った状態。

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<著者紹介>
藤林邦夫 1935年(昭和10年)生まれ。日本純信聖書学院自主退学、京都福音教会で、35年牧師として従事。ホザナ園園長も務めた。1992年2月26日、56歳で召天。この一連のエッセイは、亡くなる直前に、4年間にわたり、3分間テレフォン・メッセージとして書き溜めたもの。


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