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2046 ❶

気が触れそうな時代だよ。こんなことになるなんて誰が想像したさ。
本当に滅茶苦茶な時ってな、誰も滅茶苦茶だなんて思わない。後々振り返って、変わり果てたどうしようも無い状況を見ながらふと思うのさ。滅茶苦茶だなって。


1 狂乱


アナトが口から濃い煙を吐き出しながらボヤく。
「何だお前、もう飛んじまったのか。眉間に力入ってんぞ」
ニコはアナトのことを揶揄うように笑いながら、アナトの手にある太いジョイントを引ったくった。
「黙れ黙れ。俺の言うことは全部事実だ。脳みそが興奮してるから口にしてるんじゃない。ほら見えるだろ? 入り乱れた電線に増設に増設を繰り返した廃墟同然の建造物、パトカーのサイレン音なんて最後に聞いたのはいつだ? ここは誰の手にも追えない滅茶苦茶な場所なんだよ」
アナトが窓際に移動して外を眺める。
古びたアパートの七階から見える景色は灰色一色。視界の奥に高さ10メートルほどの壁が聳え立っているのが見える。あの壁の向こう側には何があるのだろうか。ゴミ溜めの腐敗臭が鼻を突く。
アパートの下の方で、男か女か判別し難い人間がウヨウヨと客引きをしていた。
「おい! てめえら汚ねえんだよ! 目障りだからさっさと消えろ!」
ペッと下に向かって唾を吐き出す。「きゃあ!」甲高い悲鳴と同時に笑い声が聞こえる。
「あんたも気持ちよくしてあげようか?」
「撃ち殺すぞ! 失せろ!」
アナトは娼婦たちに中指を立てながら叫んでから、勢いよく窓を閉めた。

君たちは不幸な世代だ。
大人は口を揃えて子供に言う。産んでしまって悪かったな、と。


アナトとニコは、2026年にこの世に誕生した。その時代を一語で表すとするなら「狂乱」が一番適しているだろうか。ある一つのウイルス「サルガ」によって日本情勢は愚か、世界情勢までもが取り返しのつかない不況に陥った。2020年にオリンピックを予定していた日本だが、サルガの感染拡大を危惧し二度の延期の末中止。未曾有の感染病に勝ったことを世界に知らしめるために、政府は何としてでもオリンピックを開催しようと政策を進めたが、無念にも開催は叶わなかったのだ。
2022年、完全にオリンピックが中止になることが決定した後に、日本の内閣は一新。その時点で、ワクチンの普及によりサルガの鎮圧は世界的に進んでいたが、オリンピック開催に政策のほぼ全てを捧げていた日本は、諸外国に比べ相当な遅れをとっていた。
新内閣は復興と安全を目指し、「安全安心で過ごしやすい日本を!」をモットーに多くの政策を打ち立てたが、国民がそれらに希望を感じることは愚か、国の上層部の戯言に一喜一憂できるほど心の余裕は残っていなかった。


「外彷徨いてる奴でまともなのなんていやしねえ」
アナトは大袈裟にため息をつきながら、古びたソファにドサりと腰をおろした。舞い上がった埃が部屋を照らすオレンジ色の光に映る。
「昨晩隣の棟の三階で、子供の死体が大量に見つかったらしいよ。しかも死後結構な時間が経ってたって」
ニコがそう言ってから、煙を輪のように連続して吐き出す。
「ほー。てか逆に大量の子供が隣の棟にいたのか」ここら辺で20歳以下は俺とニコだけかと思ってたよ、とアナトは軽く笑った。
「まあ、全然見かけないからね。あ、でも、この前…、下の階の女いるでしょ。なんだっけあれの名前」
「八代か?」
「あー、それそれ。そいつがね、子供を高値で買い取ってる組織があって、生活費目的でとりあえず産む大人もいるらしいって言ってた」
「なんだそれ。まあ、あってもおかしくはねえだろうけど、どうせ産んだってほとんどが死ぬじゃねえか」
「死ぬ前に売り捌く。スピード勝負なんじゃない?」
「へー、スピード勝負か。買い取ってどうすんだろ…。子死病のワクチンでも作るつもりか。今更どうにもなんねえのにな」
アナトはそう言いながら、ソファの後ろにある本棚をゴソゴソといじり始めた


サルガは、それまでの感染ウイルスと一線を画す強力なウイルスであり、2019年後期に猛烈なスピードで増殖を始めた。感染者の多くは20歳以下の子供たちで、乳幼児がウイルスに感染した場合は、約7割が死亡するという恐ろしい致死率を誇り、巷では「子死病」と呼ばれていた。仮に生き残ったとしても、感染者の多くが言語障害や視覚障害などの後遺症を患った。
それに反し、20歳以上は感染したとしても軽症で済む場合が多く、大人や老人は比較的安心して日常生活を送ることが可能だった。とは言っても、強力なウイルスであることは変わりないので、多くの企業が遠隔に変更。2020年の3月には、学校は勿論、子供が所属する多くの組織は閉鎖になり、身の安全を考慮して15歳以下の外出時間に規制が設けられた。
そのような混沌とした状況の中で、オリンピック開催を目指し感染対策以上に経済活動の維持と国際化を重んじた政府であったが、結果はもちろん思惑通りにいかず、日本の経済力は戦後最悪レベルにまで低迷。国際化に置いては、海外から人を招くことは勿論、国内の人間が海外に渡航することさえ厳しい状況であったため、グローバルのグの字も感じない有様であった。このような、国民の思いを考えず目先の利益だけを優先した政府の決断は、当然非難の声を浴びることになる。


「お、あったあった」
アナトが何やら嬉しそうに本棚から一冊の本を取り出す。黄ばんで滲みがある年季の入った本は、昔の日記のようだ。
「何それ」ニコが興味津々に尋ねる。
「お母さんの日記」アナトはそう答えて、互いに引っ付きあった頁を丁寧に剥がす。
「そんなの本棚にあったの…」
「この前本棚の整理してたら発見したんだ」
「随分古そうだけど、いつの?」
「えっと…、2021・2022の二年日記だな」
アナトが表紙に積もった埃を手で払い確認する。
「そこまで古くもないか…」
「俺らが生まれる5年前だな」
「いやまあまあ古いか」ニコは笑いながら短くなったジョイントを錆びた缶に押し付けた。


2021年の夏に二度目のオリンピック延期が決定した際には、その当時大学生だった若者を中心に多数のデモが勃発。序盤は暴力沙汰で収まっていたが、デモが長期化する中で死傷者が続出し火災が多発する大規模な暴徒へと変貌した。国はデモを沈静化するという名目で憲法を改定。軍の権限を独立させ、民間人を対象とした武力での正当防衛を法的に許可した。それが幸か不幸か、事態は更に悪化。2021年の冬には、街中で銃声が聞こえるのも日常的になる程の荒んだ都市へと変化し、そこに第二次世界大戦後から被爆国として反戦を掲げていた日本の面影は存在しなかった。
同時にその頃から、小学生をはじめとする若者の自殺が増加。その子供たちの多くが、精神病を患っているか親からの虐待を受けていた。しかしデモの鎮圧に尽力していた国はその問題に目を向けることなく、次第に自殺が世間に報道されることもなくなった。


「えーっと…」アナトが頁をめくりながら面白い日記が書いてないか探す。
「お、なんかすごいのがあるぞ」
「なになに。読んで」
ニコがポケットからタバコを出し火を付ける。

『池袋の西口でデモが開かれた。私たちがここで踏ん張らなきゃあいつらの思い通りになってしまう。暴力はダメかも。でも仕方がない。そうじゃなきゃ国はこっちを向いてくれないから 2021年9月15日』

「だって。荒れてんな」
「池袋ってどこなんだろう…?」
ニコがタバコを吸いながら、床に落ちてる緑色の空き瓶を転がす。
「な、どこなんだろう。多分東京のどっかにあった駅じゃない?」
「そっか」ニコは空き瓶を逆さまにしては戻しを繰り返す。「お母さんって僕ら産んだ時何歳なんだっけ?」
「いやぁ…あんま覚えてないけど…、確か24歳とかだった気がする」
「24か…、ってことはこれ書いた時が、19歳とか?」
「そんくらいだろうな」一人で納得しながら喋るニコを軽く流しながら、アナトは他に面白い日記がないか頁をめくる。
「19って、僕らと同い年じゃん」ニコが低い天井に向かって細く煙を出しながら小さく驚いた。
「あぁ、そうだな」
「なんだよアナト、反応薄くない?? 僕らと同じ歳の時に、お母さんは国と戦ってたんだよ?」ニコが床の瓶を拾い上げ、手のひらの上でくるくると回しながら言う。
「戦える相手がいるだけ鬱憤を発散できてマシだろ」アナトはちらっとニコの方を見てから、またすぐに日記に視線を落とした。
「ちぇ、なんだよ…」ニコはそう言いながら窓を開け、緑の瓶を空に向かって放り投げた。数秒後にガラスが砕け散る音が聞こえる。
「お、またすげえのがあったぞ」
「なになに?」

『私たちの生活はどうなるの。よくわからない政策に金をかける前に補助金をくれ。助けてくれ。軍隊の制圧はどんどん力を増すし、病院はいつも満杯だって言って役に立たないし、街中の店はどんどん潰れるし…』


「それはまだアジンができる前の話かな。相当ボロクソに言ってんね。ま、今よりはましかもだけど…」
「ちょっと待て、まだ続きがある」

『FOD建設なんてバカじゃないの。オリンピックもやるやる言ってできなかったからどうせこれも無理だよ。あと、これはこんなとこに書く事じゃないかもだけど、美希の息子が死んだらしい。2ヶ月前に生まれたばっかなのに。酷すぎる…。美希になんて声かけてあげればいいかわかんないよ 2022年8月17日』


「美希って知ってる?」
「さあ…」アナトはフィクション小説を読むかの如く日記に釘付けになっていた。


2022年。政権交代を発表し状況は改善されるかと思われたが、デモの影響や経済力の低迷により、既に東京周辺の多くの都市部は取り返しのつかないほど荒れ果てており、都市部から逃げるように地方に移住する人間も数多くいた。
同年の8月、政府は「安心と安全を目指した街づくり」を謳い、大企業TOMIDAと手を取り富士山の麓の広大な敷地に巨大な街を5年かけて実験的に建設することを発表した。『Field of Dreams』の頭文字を取り『FOD』と名付けられたその街は、ある程度の経済力と社会性を備えた人間のために開かれた街であり、最先端のAI技術を盛り込んだ画期的で革新的な空間になると宣伝された。そして何よりも国民の度肝を抜いたのは、「初期段階のFODに人間を住まわせ、そこで利便性と安全性が証明できれば、さらに5年・10年とFODを拡大し、その暁にはそこを新たな都市とし国の重要な機関・施設を移転し集約させる」という政府の発した壮大な計画であった。
FOD建設計画は、荒廃した都心部に住む人間の目に「オリンピック開催で証明したかった復興の代替計画」として映り、多くの人間が「新たな希望」という嘘で塗り固められたその計画に対し、日本の終焉を予期した。国が新たな都市建設に力を出すという表明は、同時に現在の混沌とした都市部に諦めの終止符を打つという証明であるからだ。


「ちょうどこの日記のあたりが時代の変わり目だったのか…」ニコが落ち着かない様子で部屋の中をタバコを吸いながら歩き回る。
「うん。そうだな」アナトは相変わらず日記を読んでいる
「ここからアジンができて、FODが完成して、貧富の格差が広がって、20歳以下の割合は50人に1人になって、日本の多くの地域から教育と医療と秩序が消え去った…。当時の人はアジンが壁に覆われることになるなんて微塵も思わなかっただろうな。お母さんがいたらなんて言うだろう」
「笑ったりして。自由じゃん!って」アナトが頁をめくりながら鼻で笑う。
「無法は自由?」
「慣れれば自由さ。てか俺らはこの状態しか知らないんだから」タバコをくれ、とアナトがニコに言い、ニコが箱を投げた。


2025年、政府は終わりの見えないサルガ対応により逼迫した医療機関の円滑化と統合を図り、東京・埼玉・神奈川の医療機関を国営化。国民には、国が病院を完全に管理することで無駄のない効率的な対応が可能だと説いたが、その裏にはFODに予算を回すために、現在の都市部に存在する医療機関の数を減らす目的があった。と言っても、この時点で既に三都県の医療は崩壊しており、報道される数の数倍もしくは数十倍の人間がサルガに感染している状況だったので、政府はある意味正しい判断を下したのかもしれない。
また、東京・埼玉・神奈川の三都県では、回復の兆しの無い不況により失業者や低所得者が増加し続け、家を持たない人間が街中を放浪する情景が当たり前となっていた。そのような人間を一括して管理できる場所を作ろうと考えた政府は、埼玉に安価で住める巨大な集合住宅を短期間で建設。街中に彷徨うホームレスや街の治安を悪くする人間を保証付きで移住させた。多くの人間がそこに移住し、生活に安らぎが訪れたかと思われたが、そこは程なくしてスラムと化し、世間から「アジン」と呼ばれるようになった。
2026年、FODの建設が着々と進む一方で、埼玉に誕生した集合住宅「アジン」は独自の発展をとげ、ほんの一年で一つの街と呼べるような巨大なスラム街へと成長した。土木関係者や元飲食店経営者などが多く住んでいたため、自らの知恵と技術を使って建物を増設し、店を構え、人を更に呼び活性化させたのだ。


「お母さんってどんな人だったんだろう」
ニコがアパート下に広がったガラスの破片を眺めながら呟く。
「さあ。写真でしか見たことないからな」
アナトは日記に目をやりながら答えた。
「やっぱすごい人だったんだろうな…。なんせ、子死病全盛期の時に双子産んで、しかもそれが今も生きてるんだからね。僕らね」
「まあな。確かに。あ、なあ。まだジャックダニエル残ってたっけ?」
アナトが思いついたようにニコの方を見る。
「ちゃんと僕の話聞いてんのかよ…。あるよ」
「もう夜だし飲もうぜ」
「まだ夕方っすよ…」
「いんだよ。時間なんて気にしても仕方ないんだし」
アナトがパタンと日記を閉じ、シンクの方へ歩いていく。


同年10月5日。アナトとニコがアジンのアパートの一室で生まれる。アジンの中に病院は一箇所しか存在しないため、出産の場合は自分の部屋に医療の知識のある者や出産の経験のある知人を呼び、身内で行うことが多かった。そして何より、「子死病」すなわちサルガの感染拡大を皮切りに子供を産む親は激減し、また生まれたとしてもその殆どが病により死んでしまったので、出産自体がかなり珍しく、同時に自滅的な行為であった。
無事に生まれると大人はこぞって喜び、隣人や親族などが赤ん坊を見るために集まった。そして「この子こそ絶対に健康に育てよう」と手を取り合う。しかし、ワクチンの普及が完全に遮断されていたアジンにおいて、大人が無自覚のうちにサルガのウイルスを持っていることは日常茶飯事であり、溢れんばかりの愛情が、ウイルスという形で赤子に注ぎ込まれ、気付かぬ間に彼らを殺すことも珍しくはなかった。むしろそればかりだったのだ。
そのような危険極まりない環境で生まれたアナトとニコは、奇跡的に健康な成長を遂げ、その5年後にはアジンで一番若い人間と呼ばれるようになる。しかし不幸なことに二人の母であるシノは出産直後に息を引き取ってしまう。「双子で負担が大きかった」や「もともと持病を抱えていた」などの噂が飛び交ったが、実際のところなぜ死んだのかは定かで無い。また不思議なことに、アナトとニコの出産には助産師経験のある女性一人しか立ち会っておらず、出産直後に祝いの言葉を告げるような知り合いもシノにはいなかったため、アナトとニコの出産の瞬間を実際に見た人間は助産師の彼女以外誰もいなかった。そのため、アナトとニコの誕生と成長に対して、霊的な何かが宿っているとか、FODで使われているワクチンを打ったんだとか、彼らの周りにはいつも根拠のない噂が巻き起こった。


「お前も飲むか? 飲むよな?」
アナトがシンクの下の棚からウイスキーの瓶を出す。
「いやぁ、結構ブリっちゃったから今飲むと危ないかも」
「おけおけ」
アナトは、床に仰向けに寝ながら答えるニコの心配を無視し、トクトクとグラスに液体を注ぐ。
「てかお腹減ったよー。酒より味の濃いものが食いたい」
「あー、ピーナッツバターならあるぞ」
「ほんとに!?」ニコが勢いよく飛び起きる。
「冷蔵庫。今日の朝食ったから」
「ラッキー! いただき」
ニコが小さな冷蔵庫を勢いよく開け、長方形のタッパーを取り出す。
「んじゃ、お先に」
アナトがニコの方を見ながらグラスを軽くあげる。
「アナトってすぐ死にそうだよね。酒飲みだし」
ニコが大きなスプーンにすくったピーナッツバターを舐める。
「うるせえ。お前のグラスもあるぞ。てかお前もそんなん食ってたらすぐ死ぬぞ」
「死ぬぞ死ぬぞ!」
ニコがアナトの口調を真似しながら笑う。
「このヤク中が…」
アナトはニコに呆れながらも一緒になって笑った。


2027年、計画通り数百名の人間がFODに送られる。表面上は「移住抽選」なるものを使った公平的な選抜だったが、実際に移住した人間は政治家や資産家、医者や著名人などが殆どで、低所得者は愚か民間人さえもFODに移転する望みは無かった。アジンには「移住抽選」の情報さえ届かなかった。

2028年、アジンは拡大を続け、人口は5万人を超えた。ただそれも推定であり、実際はその倍近くの人間が住んでいると言われた。国は拡大が著しいアジンを10メートルの壁で囲うことを決め、数年がかりの建設をスタートさせた。
この年から、アジンの人間が外に出るにはパスポートと国の規定に沿った理由の提示が必要となり、事実上アジンという巨大なスラム街は日本から切り離されてしまった。


「明日何する?」
ニコがタッパーの蓋を舐めながらアナトに尋ねる。
「どうするか…」アナトがウイスキーの入ったグラスを眺める。
「あ、さっきさ、日記にちょっと面白いこと書いてあったの見つけたんだ」
「なになに、さっき読んでたとこ?」
「いや、それとは別。多分誰かのことか、どこかの場所のことだと思うんだけど、いまいちわかんなくてな」
アナトはグラスをテーブルに置き、ソファに置いてある黄ばんだ日記を手に取った。
「これ」最後のページを開きニコに見せる。
「どれどれ…」

『アレクの言ってることが本当なら、私もそこに行きたい。水が滴る廃墟と鬱蒼と生える草。黒い犬がとぼとぼと歩く。そこが本当にあるのなら、私の願うも叶うかもしれない。アレクを探さなきゃ 2022年12月20日』


「何これ、意味不明なんですけど…」
ニコが何度か声に出して読み直す。
「な、よくわかんないだろ?」
「うん。全く」
「でもなんかさ」アナトが日記を閉じ、真剣な目でニコの方を見る。
「俺聞いたことあるんだ」
「何を?」
「アジンのどこかに、ヴァディトって呼ばれる人がいるって」
「その、ヴァ、ヴァ…ヴァなんちゃらってのは何する人なの?」
「案内人」
「アンナイニン?」
「そう。そいつらがどこに案内してくれるのかは知らないけど。とりあえずどこかに案内してくれるんだ。で、多分お母さんの言うアレクってのもそれなんじゃないかなと思うんだよ」
「はあ…、つまり…?」
「つまり、アレクって名前のヴァディトを探そうよってこと」
「え、だって…、これ20年以上も前のことだよ? もういないかもだし、しかも探すって言ったってアジンにどれだけの人間がいるかわかってる? それも自分の名前も知らないような人ばっか」
「うん、まあそれは知ってるけど。いいだろ? どうせ明日も明後日も明明後日もすることないんだ。そろそろ20歳になるんだしさ、ちょっとした冒険してみようぜ」
「いや、いいけど…、手がかりは? アナトの記憶のみ?」
「うん」
「うんって…」
「さっさ、とりあえず残りのウイスキー飲んで、今日は寝よう」
「だからまだ夕方だって…」
ニコはアナトの突飛な計画に戸惑いながらも、少しワクワクしていた。
「いいかもね。手がかりのない冒険も」
「だろ??」
アナトが嬉しそうに笑いながら、瓶にある残りのウイスキーをグラスに注ぐ。
「こんな場所、とっとと出ちまおうぜ」
アナトが窓の外に向かって勢いよくジャックダニエルの空瓶を投げる。
数秒後にガラスの割れる音と女の叫び声が聞こえる。
「無法は自由だ」
ニコが新しいジョイントに火をつけながら呟いた。


窓の外には灰色の空と無数に張り巡らされた電線。そして遠くに黒ずんだ巨壁が見える。
女の悲鳴、カラスの鳴き声、男の罵声、腐敗臭。アジンに「正しさ」は存在しない。アジンに「救い」は存在しない。そこには無法という名の自由しかないのだ。


2046年。これはアナトとニコの旅の物語である。


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