見出し画像

第4回「清須でどうする?」1月29日

今回の見所のひとつが、清須城の再現でした。

ドラマですから物語が史実だけを追う必要はないのですが、『どうする家康』の制作陣は、時代考証にはかなりこだわりがあるようですね。
清須城の描写も、最新の学説や発掘調査などを採り入れ、見事に再現されていました。
現在の清洲城(あえてこちらの字)は、実はなんちゃって清須城なんです。もともと信長が居城した時代の清洲城は平城で、櫓はありましたが、天守閣は存在していませんでした。
つまり、平屋造りです。ほとんどが一階建てで、せいぜいが二階建てくらいだったんじゃないでしょうか。
周囲を木塀と水堀に囲まれ、石畳が広がっていたことが想定されます。さらに発掘された縄張りはかなり広く、ほとんどもう街です。

添付のイラストは、中央の廓の部分だけであり、城全体の縄張りはさらに外に広がっていて、この数倍の広さになっていたようです。
現代の模擬天守の小さな清洲城と隣の公園しか知らない人からすれば、かなり意外かもしれませんが、本当はドラマの描写こそが史実にあった清洲城なんです。
清洲城は、尾張守護(国主)の居城で、元々は守護斯波義統が守護代織田大和守信友とともに暮らしていました。
この信友が謀反を起こし、義統を討ってしまいます。この期に那古野城主の織田信長は、守山城主で叔父の織田信光とともに織田大和守信友を滅ぼし、斯波義統の息子(後の斯波義銀)を擁して、清洲城主となります。
ここで初めて、信長は事実上、尾張下四郡(尾張の南側半分)の領主となります。
しかし、朝廷に認められた守護ではないので、信長自身は清洲城の北の櫓に住み、本丸は元服させた義銀に与えていました。
その後、義銀が三河の吉良氏と結んで信長排除を企てたことで、信長は義銀を尾張から追放します。
さらに信長は尾張上四郡の守護代である織田伊勢守信賢を攻め、名実とも尾張の国主となります。
そこで桶狭間の戦いが起こり、それをきっかけに、三河で今川家から独立した松平元康(家康)と同盟を結びます。
それが今回のドラマで描かれたところです。
名目は尾張と三河の国主が対等の同盟を結んでいますが、信長はやっと尾張統一を果たし、これから美濃攻めを本格化しようというところで、一方の元康は三河の独立を確固たるものにするために、これから今川と対決しなければならないという状況で、お互いの背中を安堵するために、境川に国境を決めたというところが、描かれていました。
信長にとって家康は人生で最初の同盟者であり、そして家康は信長が死ぬまで裏切ることなく、二人の運命的な関係は続いていくことになります。
さあ、今後のドラマの展開が、ますます楽しみになってきましたね😄

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?