タイムパラドクスは難しいよね。

映画『九月の恋と出会うまで』をWOWOWで見た。

放送されるまでこの作品のことを知らなかった。
あまり話題にならなかったんだなと思ってしらべたら昨年公開された作品でした。

予備知識ゼロで、見始めたら、なんとある種のタイムトラベル物だった。

タイムトラベル物マニアとしては、知らずにいたではすまされないではないですか。
調べたら、原作は松尾由美さんのSF小説でした。

松尾さんは、お茶の水大学SF研究会出身の作家です。
僕と同年代。僕は明大SF研。学生時代、お茶大SF研の人とはお茶を一緒に飲んだ間柄。(マジです)美人の部長さんがいたなぁ。
なつかしい。青春の想い出。
急に親近感がわいてきました。

これはちゃんと気合いを入れて、見るしかない。
背筋伸ばして見させていただきました。

主演は、高橋一生と川口春奈。

そして、
見終わりました。

感想は。
「……なるほどねぇ」

面白いところもあった(僕にとっては)けど、全体としては微妙っていうのが正直な感想です。

以下の文章はネタバレを含むことになるかもしれないので、これから見ようという人は読まないでください。
映画は見ないけど、台本番長の毒感想読んで、あらたなる創作のたしにしてみたいという人は、読んでもいいですよ。

『タイムパラドクス』テーマの映画でした。

この物語では、主人公たちがどうやってタイムパラドクスの呪縛を解くかというのが、肝になっていました。

このあたりはさすがに原作のSF作家の着想が斬新で、SF研出身の僕にとってはとても興味深いのですが、一般の人たちにとっては「なんじゃそりゃ?」というネタだったかもしれません。

だいたいタイムパラドクスといっても、恋愛映画を期待して見に来た人たちにとっては「?」でしかないと思います。

だってタイムパラドクスということを理解するまで、けっこう考えなきゃならないことが多いですし、あくまでも概念の話ですからね。
(映画の中でも、これを説明するのに、わざわざ時間とって主人公のしおり相手に、小説家志望の平野がきちんと解説しておりました。)

この映画では、タイムパラドクスの呪縛を解かないと、主人公の女性(しおり)は消滅してしまうということになっていました。

そして、結果的に彼女はそれを受け入れるという決断をするのです。

それをもう一人の主人公が呪縛を解いて、二人は結ばれるという結末に向かうのでした。
物語はハッピーエンドを迎えます。

映画のストーリーの肝はいま書いたことなんですが、このなかにいくつか「えー、そうするの!?」ってなるところがありました。

○えーっ!? ってなった理由。

1、『タイムパラドクスの呪縛を解かないと彼女は消滅してしまう』

まずこの設定にリアリティがありませんでした。
つい、本当にそんな呪縛なんてあんの?
って突っこみたくなりました。

上記の設定は、あくまでも仮定の話であり、実際にそれをみた人も証言もないわけで、いくら主人公にそう口で説明されても、それを信じることができないのです。
しかしこの設定を押し切らないと、物語自体がなりたたないので、そのまま押し切ったんだと思うけど、脚本家はここを、もう少しちゃんとフォローしておくべきだったんじゃないかと思いました。

たとえば、主人公たちと同じように自分の運命を変えた人が他にもいて、その人が消滅するのを主人公が見てしまうとか。


2、『自分が消滅するとわかっていて、彼女はそれを受け入れてしまうこと』

なんと主人公のしおりは、タイムパラドクスの呪縛を受け入れて、自分が消滅するという運命に従おうとします。

主人公としては、これはだめでしょう。
主人公ならば、自分に襲いかかってくるトラブルに立ち向かってくれないと。

物語には王道があります。
「主人公は自分に襲いかかってくるトラブルと立ち向かい、それを自分の手で、なんとか解決して、成長(変化)しなければならない」
これです。

それなのに、この主人公しおりは、これにたち向かおうとしません。


○なぜ主人公は、自分の運命に立ち向かわなかったのか?

なぜこうなってしまったのか?
理由は明白でした。

主人公が、主人公でなくなってしまったからでした。

この映画では、主人公の交代劇が起きていました。

前半から、後半の途中まではしおりの目線で物語りが描かれていきます。
当然主人公はこのしおりでした。
しかし最終的に最後トラブルを解決するのは、しおりではなく相手役の平野なのです。
タイムパラドクスの呪縛を解くのは、平野だったのです。

つまり、ここで主役がしおりから、平野に交代してしまったのです。

この主役交代は、観客が気がつかないようにサラリと行われました。

そして映画は最終章に突入していきます。
いかにして平野が、タイムパラドクスの呪縛を解いたかという部分です。
本来ならばクライマックスにならなければならないところなのにです。

作り手は、このカップルの二人が主人公なのだから、主人公は変わっていないと思っていたのかもしれませんが、明らかに冒頭から女性の視点で物語を描いていたわけだから、最後までそれは通すべきでした。

しかしおそらく原作の展開がそうなっていたのだろう。ということが推測できます。
ここが原作物を映画にするときの難しいところです。

だったとしたら最初からこの男の方の目線で脚本を作っていけばよかったのにとも思いました。

まぁ、後からはなんとでも言えるのですが。


○もっと強化してほしかったポイント

○主人公のキャラクター。

主人公しおりは、旅行会社に勤めるカメラ好きの平凡なOL。
という設定でしたが、主人公としては、普通すぎたのではないでしょうか。
物語の中で主人公が大きく変化した方がドラマ的にも盛り上がるので、もう少し弱点などをつけて、彼女が物語を経て成長するところをはっきりさせるなどのことはあっても良かったのではと思いました。

そのしおりの恋の相手である平野に関しては、小説家志望だが、じっさいは本気で小説家を目指していない心の弱さを持っているというふうに設定してあって、その成長がしっかり描かれる流れになっていました。

○純愛の達成が、ラブロマンスとして目指すところならば、主人公に立ちふさがる障害はもっとあってほしかった。

主人公の恋愛を邪魔する存在(トラブル)が、あまり強力ではないように思いました。

○今回の気づきまとめ。

○物語の根幹をなすであろう設定には、それを観客が信じられるようにしておかなければならない。

○主人公の交代はやらないほうがいい。

○主人公はクライマックスで活躍するべき。


いろいろ文句をつけましたけど、「タイムパラドクスをどう解決するか」という視点でストーリーを描いた映画には、僕は初めて出会いました。
それは評価されるべきことだと思います。

だからこそ、このタイムパラドクスの呪縛をどうがんばって解くかというところは、ちゃんと描いて欲しかったです。

○もう一つ大きな疑問。
なぜ主人公のしりおが入ることになったアパートの部屋の中だけが、ある条件の中で1年前と重なったか(タイムトラベルが可能になったか)という謎も、SFファン的には解決してほしかったです。
(ここ説明されてましたかね? 気づきませんでした。説明されてたなら、ごめんなさい)

○他の映画では、こんなやりかたもありました。

タイムトラベル物の傑作といわれている『ある日どこかで』では、すべてのものを当時のものと同じにすると、その不思議現象が起きるということを信じて、主人公がそれを準備するというものがありました。

「ある日どこかで」は傑作なので、タイムトラベル映画のファンの人は必見です。

この映画の脚本を書いたリチャード・マシスンも影響を受けているであろう、小説家ジャック・フイニィの作品群もおすすめです。『レベル3』『ゲイルズバーグの春を愛す』など。


○最後に
いやぁー、インフルエンザにかかったおかげで、こんな映画と出会うことができました。
そうじゃなかったら、見てなかったですもの。

映画を見て、自分だったらこの原作をどう脚色するかというのを考えるのも、脚本の訓練になると思います。
脚本家志望の人には、おすすめの訓練方法かもしれません。

僕らのやっていること(脚本、創作)には正解はありませんが、正解にちかいものはあると思います。
そこに向かって僕らは技術を鍛えるしかないのです。


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