愛があるとか、ないだとか
愛についてよく考える。
本を読んだり、勉強をしたり、自分の過去を思い出したり、人の話を聞いたり。とにかく思考して書き出したり。
人生に意味なんてなくて。なにか意味を与えられて生まれてきたわけではないという意味で、意味がないから生きなくていいとかはまったく思っていない。
あなたは消防士になって、結婚をして、転職もして、それから文章を書く仕事をしなさい、とだれかに言われて生きてきたわけじゃない。きっとみんなもそうだ。なんとなくの人もいるし、自分で選んでいる人も、親のいうことを聞いている人も。だいたいそんな感じなんだ。結果的に自分で人生に意味をつけてる。
見つかっていない人も多くて、生きる意味ってなんだろうとみんなが考えていて、意味あるものにしていきたい、とだれしもが心のどこかで求めているんだろうなと思うんだ。やりたいことが見つからないとか、好きを仕事にしたいとかはそういう渇望のわかりやすい例なんだと思う。
きっと叫びなんだと思う。だれかわたしにも教えてよって。自分だけ本当に楽しそうでずるいよって。
だから余計に、愛について考える。愛が、そのまま生きる意味になると思っているから。
ぼくはきっと愛なしでは生きていけない。たくさんの愛を求めているわけじゃない。近くにいてくれる人の、気を使わない人の、だから自分の時間を使いたくなる人の、愛を感じて生きていきたいと思う。生きている限り、愛なしに生きている人はいないんじゃないかと思う。
自然と与えていて、自然と受け取っている。
愛があるとか、ないだとか。
そんなに深く考える必要はない。
愛は生まれるものでもなく、ただそこにある。いつだってある。
気がつくかどうか、だと思うのだ。
なんで生きているんだろう。そんなふうにぼんやりと考えている人に愛に気がついてほしいと思う。
自分が愛を注げる対象に気がついて見つけることができれば、生きる意味になると思うんだ。
愛を注げる対象とは、あ、これ好きだなと思えるものだ。
食べることが好きなら、美味しいお店を探したり、自分で料理がしたくなるかもしれない。
旅行が好きなら、やっぱり日本でも、海外でも、どこかへ生きたくなるのだろう。
愛したい人がいたら、その人を愛すために生きるようになる。
ぼくは書くことが、愛を注げる対象だった。もっと詳しく言うならば、人が愛を注いでいるものやことを知って、それを文章にすることに愛を注げると気がついた。
例えば、先日話を聞いた女子高校生。彼女がぼくにとっての愛を気がつかせてくれた。
彼女は高校2年生で、陸上をやっている活発な学生だった。腹筋も割れているらしい、シンプルにすごい。
話を聞いていると、彼女は薬学部へ行きたい、と言った。
どうして?と聞くと、
「わたしは化学が異常に好きで、有機化学式が好き。とくにシクロヘキサンが好きだ」と言っていた。
ものすごく面白かった。
彼女は高校生でたまたま自分が愛を注げるものに出会えたのだ。
ただたまたまなにかのきっかけで愛があることに気がつくことができた。
愛に気がつくとは、愛を注ぐ対象を見つけることで、それが偏った愛だと認識することだ。愛を注ぐ対象は、やっぱりどんどんと偏っていく。愛が大きくなるから当然だ。
偏った愛を持つ人の話は面白い。終わりがない。なぜそう感じるのか、なにがきっかけだったのか、これからどうしていきたいか。
ぼくは偏った愛を知るのが好きで、そういう人の偏った愛を、ぼくには理解できない世界をこうやって文章にして切り取っていきたいと思った。
彼女にとっての偏愛が、ぼくにとっての偏愛だと知った瞬間だった。
あなたにとっての偏愛はなんだろうか。
彼女のように他人からはなかなか理解されないものだったとしても、なにか愛を注いでいるもの、偏った愛を感じるものはあるだろうか。
なければないでいいんだ。
こうして化学式を愛する人がいると知ったことが、自分にとっての化学式ってなんだろうと考えるきっかけを与えてくれる。
化学式はわたしにとっての愛が注げるものじゃないなと、一つ選択肢を減らしてくれる。
そうやって、他人の愛を知って、自分にとっての愛を見つけていく他にないんだ。
愛があるだとか、ないだとか。
生きていれば、きっと出会える。大きくても、小さくても。
大丈夫、もうあなたなら気がつける。
生きる意味は、ちゃんと始まっているから。
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生きる意味を書く物書きより
※
代筆屋の仕事
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