生きたいは、”行きたい”であってほしい
生きたいかどうかはあんまり関係なく、人は生きていく。
そういうふうにできていて、そこに違和感は感じない。
生まれ、息をして、立てるようになって、話せるようになって、いつの間にか一人で歩き出す。
だいたい自然とできるようになっている。
家族とともに生きたり、同じ年代の友だちと遊ぶ。
何かに打ち込んだり、勉強したり、やりたいことをやる。
気がついたら色々考えられるようにはなっていってる気がして、進学したり、就職したりする。働くことで生きるためにお金を稼ぐ。大変なこともたくさんあるはずだ。プレッシャーがあって、しんどい思いもする。
仕事終わりには適度に酒を飲み、休日にはいろんな遊びをして、お金を使う。恋愛や性愛を楽しむこともある。
そのうちに結婚なんかもして、子どももできたりして、家を買ったりして、そうやって生活を繰り返していくことになる。
そこに意味なんてない。
そもそもの人生に意味はなくて、ただそういった”だいたいのかたち”が与えられている。だから、深くは考えずに生きていくこともできる。
だからこそ、僕は思う。
だいたい自然とそういうふうに生きられるようにできているから、ただ生きるには人生は長い。
なにも夢や目標もなしに、ただ漠然と毎日を過ごしていくには、人生は長すぎる。
途中で「あれ、なんで生きてんだっけ。」って思うことがある。
もっと早くからそういうふうに考える人もいるけれど、どこかでなんで生きてるのかを考えるときがたしかにくる。
一人だとよけいにあるかもしれない。一人はよけいなことを考えるよけいな時間が増える。夜が長いとよけいに、よけいなことを考える。
一生そういう生きる意味みたいなものを考えるときがこないなら、それもそれでいい。それはそれでしあわせな人生だ。
でもどうせいつか考えてしまうなら、早めに考えておくとそれもまたいい。
どう生きたいか。
それを考えると、なにかしたくなる。なにもしたくないことをしたくなることもあるし、本当になにかしたくなることもある。
「意味のある人生にしたい!」
「目標を持ちたい!」
「夢を叶えたい!」
漠然とした日々の焦りから、漠然とした想いがあふれるかもしれない。
「好きを仕事にしたい!」
「会社をやめたい!」
「好きな人と一緒にいたい!」
そういった具体的な強い夢が出てくることもあるだろう。
なんだっていい。
どう生きたいかを初めて考えることができたとき、初めて人生に意味というおぼろげなものが見えてくる気がする。ある意味では、もうそこに意味が生まれたと言えるのかもしれない。
意味なんてものに、意味なんてない。
自らに意味を与えて、どう生きるかに意味が生まれる。
人生に色がつく。
すこしずつでいい。なぜ生きたいのかを問えるようになっていこう。
あれ、こう生きたいなと思えるようになっていこう。
なにから始めていいかわからないと思う。何も問題ない。どう生きたいかについて考える方法を僕たちは習っていない。
だからはじめは、行きたいから始めるといいと思うんだ。
好きな人に会いに行きたい。きれいな景色を見に行きたい。おいしいものを食べに行きたい。
行きたいに行ってみて、見えてくることがある。
世界をすこしだけでもいいから広げてみて、行きたいから自分の世界を見てみよう。
行きたい場所に行って、たぶん大したことなかったり、こんなもんだったかと思うこともある。
なにも残らないのだろうか。
そんなことない。
ひとつ、行きたいを見に行けた。自分が求めているものは何なのかを探しに行くきっかけができた。これは違うんだ、とわかることができた。また違うなにかを求められるようになった。
そのためになにをするのか。
行きたい先に、なにをして生きたいが見えてくるかもしれない。
だからやっぱり行きたいから始めよう。
僕は行きたいから始めた。
あなたの行きたいはなんですか?
行きたいの先に、きっと生きたいが見えてくる。
行きたいところがあれば、行ってみよう。
会いたい人には、会いに行こう。
行った先にしか、見えないものがきっとある。
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どう生きたいかが見えないあなたへ
行きたいところへ行ったら、生きたい人生が見えた物書きより
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