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徳島を希望に満ちた街へ💫


はじめまして。原田 大吾です。

これまでやってきたことやこれから目指すビジョンなどを発信していくためnote始めました。

今回は、自己紹介をします。気合い入れてとても長くなりました(笑)

特にこれまで本気で挑戦してきたこととその経験から生まれた自分なりの人生観を書いています。

こちらは簡易版です。もし興味持っていただけたら以下をご覧ください。

プロフォール.001


0. 原田大吾 誕生 in Tokushima.

徳島県鳴門市里浦町の原田家の三男として生まれました。兄が2人と弟が一匹います。兄の真似して張り合う世話の焼ける弟だったと思います。小2のクリスマスでサンタさんに犬を頼みましたが、届けてもらえずこの世に絶対はないと思い知りました。笑

しかし、年明けに近所で有名だった野良犬のシロが子犬を10匹産んだというニュースを聞き、頑固な僕に両親も折れて彼を授かりました。成長期を共に過ごした大切な弟です。

兄弟.001


僕の生まれ育った街です。信号もコンビニも一つもないです。さつまいも畑と青い海と空があります。帰省すると、いつも大きなエネルギーをこの街からもらっています。

里浦



1.本気で挑戦した野球人生

2人の兄の影響で幼稚園の頃に野球を始めました。小中高と主将を務め、中高では徳島で優勝するなど大学3年生まで約15年間野球をしました。その中で最も印象に残っているのが高校野球です。

高校は徳島で1番甲子園出場回数が多い徳島商業高校に入学しました。家の近くにも強い高校もありましたが、より厳しい環境でしたいと思いがあり徳商を選びました。同じ県内でも家から遠かったため寮に入り、本気で野球に打ち込む環境に身を投じました。

ノート.002

部室.001

毎日朝早くから夜遅くまで練習。公立高校なので授業もしっかりある。当たり前ですが、土日も1日試合や練習。毎日夕食終えて寮に帰るのは23時くらい。そこから先輩の洗濯やお風呂が終わるのを待って寝るのは1時とか。そのまま床で力尽きることもよくありました。次の日は体はパンパンで地獄。覚悟はしていましたが、本当に想像を絶する日々でした。野球部の仲間の存在とクラスの友達との楽しい学校生活があったから乗り越えられました。

入学当初からチャンスをいただけて、1年春からベンチ入りし秋からはレギュラーになり、最高学年になると主将としてチームを引っ張りました。3年春の大会では優勝して四国大会も出場しました。春は甲子園には繋がらない大会なので、夏も優勝して甲子園に行こうと意気込んでいました。

しかし、結果はまさかの一回戦負け。延長14回サヨナラ負け。

真夏の暑い中で4時間を超えるくらい試合したので正直後半はあまり記憶にありません。しかし、負けた瞬間と相手チームが校歌斉唱しているシーンだけが今も鮮明に覚えています。本当に悔しかった。

あれだけ練習してあれだけ苦しいことを乗り越えて挑んだ最後の舞台で初戦敗退。自分たちがこれまで積み上げてきたことはなんだったんだと現実を受け入れることはできませんでした。

試合終了後に球場の外に出ると、応援しにきてくださった保護者の方や友達、OBの方々が集まっていました。負けた僕たちの姿を見て、多くの人が涙を流しているのを見ました。学校に帰ってからも違う部活の友達や先生が迎えてくれて、夜には中学の友達や先輩後輩、先生がメッセージをくれました。自分たちはこんなにも多くの人の期待を背負い応援されていたんだと実感しました。それと同時に、その期待に応えられなかった悔しさがまた込み上げてきました。人生でこんなに期待されて応援されることはもうないと感じました。

ノート.003

高校の時の仲間は今でも連絡をとったり地元に帰ったら集まってくれます。今はそれぞれ違う道で頑張っていてとても刺激をもらってます。僕はみんなが大好きで、みんなと出会い3年間共に野球をした日々は僕の財産です。徳商に行ってよかったと心から思ってます。個性強すぎてまとめるのはマジ大変やったけど良いやつばかりで最高のチームでした。だからこそ、みんなと一緒に甲子園に行きたかった。その想いだけが今もなおずっと消えません。最高のチームだったけど、最強のチームにはなれなかった。これが本当に悔しかった。

ノート.001


2.大学生活と葛藤の日々 in Osaka.

甲子園に行くにしても行かないにしても野球は高校で区切りをつけると決めていました。中学生の頃から顧問の先生に憧れて教員として指導者になろうと考えていました。大学は、教員免許と鍼灸師の資格が取れる大阪の森ノ宮医療大学に進学しました。高校入学した時とはまた違う、本当に誰も知らない街で生きていくワクワクと不安があったのを覚えています。

勉強もこれまでろくにしたことなかったので、医療系の難しそうな内容に不安でしたが、僕は両親に大阪まで来させてもらって高い学費を払ってもらってるからみっともないことだけはできないという気持ちは常に持っていました。授業数も多いし難しかったけど必死に勉強しました。その結果、成績優秀者として給付型の奨学金もいただくこともできました。

野球は続けるつもりはなかったけど、教員免許を取るコースは部活に入らないといけなくて、準硬式野球部に入りました。1年秋では創部初のリーグ戦優勝して個人でも首位打者とベストナインを獲りました。なんやかんや野球はやるとめちゃくちゃ楽しかったです。野球があったから全く知らない場所にも馴染めたし4年間通して大事な友達もできました。

森ノ宮.001

勉強や部活で忙しかったけど、高校の頃に比べたら全然楽でした。チームを引っ張る責任感もなく毎日心身を削り切るまで追い込むこともなくとにかく自由で楽でした。その快感を望んていた自分もいましたが、心の底から燃えきれていないことに徐々に気付きもどかしく思う自分もどこかにいました。

このままじゃあかん気がした。勉強もやってはいたけど、燃えきれてはいなかった。僕が求めていたのは、甲子園を目指す以上の何か。

大阪ではコンビニやスーパー行っても知り合いに誰にも会わんし、周りの目なんか気にせず生きていける。自分が頑張ろうが頑張らなかろうが何も変わらんと思った。ずっとあの頃の自分に負けている感じがした。

このままでは、本気になることも仲間とガチでぶつかり合ったり支え合ったりすることも、多くの人の期待を背負い喜んでもらうことももうないと感じた。それは嫌だった。野球をやっていた頃のように誰かに期待されることはプレッシャーもあってきついけど本当は幸せで僕の生きがいだったんやと実感した。もう一度何かに本気になって挑戦したいという気持ちが強くなった。

でもだから何をしたらいいのかは分からず、当時は本読みまくったりyoutubeでそっち系の動画みたりイベントに行ったりでモヤモヤしていたのを覚えています。


3.大阪に来て感じた衝撃

そう悩んでいる時に大学の先輩と話をする機会がありました。話を聞けば、学外で活動しているとのこと。僕は大学で学ぶことしか知らなかったので興味を持ち、先輩に連れられてイベントに参加しました。そこで他の大学の人と会ったり他分野の職種の人にも触れました。学生なのに、起業?インターン?学生団体?なにそれって感じでした。同じ学生でもこんな人たちがいることに驚きました。聞けば、高校の時からこうゆう活動していてみたいな話もあり、なにそれえぐいやん。おれ高校の時野球しかしてなくて引退してからは一生遊んでたよ。って思いました。

その時に大阪はすごいと感じました。SNSで色々と調べてみると、イベントやセミナーも頻繁にあって、徳島との違いを感じました。これまでは大学の授業と部活とバイトしかしてなかったけど、もっと自分から主体的に行動したら自分の未来は広がると感じました。徳島にはこんな環境はなかったし、本当に衝撃を受けました。


4.Armoryとの出会い

大阪の環境に衝撃受けたのが大学2年の秋頃です。それからは、医療やスポーツ以外のことも知らんとあかんと思い活動を広げていきました。同い年の違う分野の学生やフリーランスの方、時には経営者の方ともお話する機会がありました。その中で株式会社Armoryに出会いました。若者に挑戦する武器を与えるという会社で、人生の軸の持ち方や経営を通して自己実現するヒントを教えていただきました。僕のようにもう一度人生かけて挑戦したいと思っていても実際はなにやっていいか分からん人は多いです。「挑戦できない」「武器がない」だから、学校の勉強頑張って成績上げていいところに就職する。でもそれは本当に自分が人生をかけれる道なのか。その生き方で自分の人生に誇りが持てるのか。僕は甲子園を目指す以上のものが見つかるイメージが湧かなかったので、それを見つけ実現するためにArmoryに入りました。

公式用.001

【自己理念プレゼン】公式用.003

最初は、理念やビジョン、ゴール設定の重要性や考え方を学び、経営の基礎を学ぶ中でやりたいことを仮で決めてアウトプットして仮説検証をしてみる。実際にイベントを主催したり事業をしたりもしました。

その中で僕は、徳島の活性化をしたいという気持ちが強くなりました。僕が大阪に来て感じた徳島との違い。徳島の同世代の人が抱えているやることないやなどの想いを変えたい、そして自分の人生を心から誇れるいい街をつくりたい。

Armory chainという構想があり、他分野の人とお互いの強みを掛け合わせ新しいイノベーションを起こす。この構想に僕はとても惹かれました。僕自身、徳島という地方や医療という狭いコミュニティでいることが多かったこともあり、他分野のことを知ること機会がほとんどありませんした。普通は、同じ分野や似た分野の人たちが集まって仕事をするはずです。しかし、違う分野の人たちがお互いの強みを掛け合わせて今までにない新たなイノベーションが誕生する。僕は街づくりに興味を持っていましたが、他分野の熱い想いを持った人たちと連携していくことで更にオモシロイことができる気がしました。

それもあり、これまでArmoryで2つの新規事業の創業を経験し、今はコミニュティ事業や起業家育成高等学院で講師や運営をしてます。Armoryと出会い本気で目指せるビジョンができ、その中で共に挑戦する仲間もできました。スキルや知識も増えましたが、「夢」を見つけたり「仲間」ができたり、僕にとってはそれこそが最大の「武器」になりました。

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5.徳島にこだわる理由と目指すべき道

徳島を盛り上げたいと思う理由は二つあります。

一つは、小さい頃によく遊んだ場所や店が地元からなくなっている現状からです。思い出は消えませんが、実際にその場所がなくなるととても悲しいです。大人になってもずっとあの店の料理を食べたかったしあの場所で遊びたかったです。特にこの数年で地元の衰退を感じています。

しかし、それと同時に地方の可能性も感じています。今は社会が凄まじいスピードで変化しています。これからはさらにテクノロジーが発達し人のライフスタイル事態も変わってきます。オンラインがさらに広がり、地域格差は少なくなってくる。コロナの影響もありますが、今は僕も仕事の9割がオンラインになってます。Armoryも徳島や他の都市に展開します。そうなると多拠点生活もできるし、好きな時に好きな場所で仕事ができるようにもなる。都会も地方もずっといると不満に思うこともあるけど、気分によって行き来できるライフスタイルができるとおもしろそうです。あと、僕は徳島が大好きなので徳島にこだわりますが、徳島以外の地方にも同じような課題はあるので連携してできることも沢山あると思います。

もう一つは、当時の僕と同じように止まっている人が多くいることです。実際に仕事で悩んだり人生について深く考えている同世代の人は多いです。子供の頃は、何かに夢中になって夢や目標が持つのが当たり前だったけど、大人になるにつれて無意識に可能性を減らしていると感じました。大人になってやりたいことが分からないという人も多くありました。実際に僕自身もそうでした。それはこれまで生きてきた環境に原因があるのかと思います。

子供の頃は基本的に親と教員と友達の親くらいしか大人と出会わない。世の中にどんな仕事があるかなど考えたことなかったし興味も湧かなかった。知るだけならネットや本でもできるけど、何かきっかけがないと子供は好奇心を持たないし実際に働いている姿を見たり自分で体験することで憧れが生まれる。

僕が子供の頃憧れたのは、プロ野球選手と指導者と整骨院の先生。全て子供の頃に触れた仕事でした。よく女の子がケーキ屋さんに憧れるのは、実際にケーキ屋さんで美味しいもの食べたり自分でケーキを作った経験があるから。そういった経験がめっちゃ大事やと思います。

人生について考えることや自分の軸を持つことは今だから大事だと思うけど、それを8歳の時に言われても意味わからんと思います。強制からは好奇心は生まれない。だからいろんな職種の人と出会えて触れ合える環境をつくる。仕事場にも自由に来ていいし子供でも実際にやりたい仕事を体験して人に喜んでもらえたりお金を稼いだりもできたらきっと貴重な経験になる。

だから、今は免許を取った保健体育の先生とは違う立場で、起業家育成高等学院で自分の人生の軸の持ち方やゴール設定を考える、時間をかけて自分の軸を見つけるということのサポートをしています。起業家育成という名前ですが、起業はあくまでも選択肢の一つで、就職や進学が自分の理想ならそこを目指していく。ただ経営の知識を教えるだけでなく高校3年間で自分の夢や軸を見つけ実際に行動に移し経験して本当に自分に合うか確かめる。これが真の教育だと僕は思ってます。このような社会を目指し今この新しい取り組みに挑戦しています。

今はArmoryも起業家育成高等学院も大阪を中心に活動していますが、オンラインコンテンツも準備して、地方の人でも参加できる仕組みをつくりました。授業も今はオンラインで対応しています。地方だから挑戦できないという一つの障害は少なくなりました。挑戦できない障害となるものを取り除くのが僕たちが目指していることです。

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出来そうなことを目指すより、出来るか分からんけどやりたいことに人生かけて挑戦している。そんな人が僕はマジでかっこいいと思うし、そんなキラキラした人を徳島からもっと増やしたい。僕の知っている友達や仲間、先輩後輩など同世代の人はみんなすごいポテンシャルを持っていると思う。そのエネルギーを自分の夢ややりたいことにぶつけ、違う道でもお互いを高め合える環境を創ることができたら絶対に楽しいし街も盛り上がる。

僕たちが挑戦することが当たり前の社会をつくることができれば、次の世代に希望を見せることができると思っています。逆に、もしあなたが今や過去に悩んでいることがあるならそれを次世代に同じことはさせないことが僕らのやるべきことだと思います。あなたがこれまで必死に生きてきたことは、自分では大したことないと思っても、それを伝えることで誰かにとってはとても貴重で希望になることもあると思います。

僕もまだまだ大したことはできていないので、この想いに共感してくれる人がいましたら力を貸してほしいです。自分たちが生まれ育ちこれからも暮らしていく街を僕たち自身と次の世代が幸せに生きれるように、徳島の未来を一緒につくっていきましょう。

徳島以外の人でも今もし悩んでいることや同じ課題感を持っている人がいましたら、Armory chainの構想のようにお互い強みをかけ合わせてできることもあると思います。もし人生かけて挑戦していきたいと感じたなら是非一緒に協力して出来れば嬉しいです。



6.まとめ

あの夏のあの試合で負けたからこそ今の自分があると思ってます。

甲子園という目標は達成できず、あんなに練習したのに初戦敗退で無駄な努力だったのかと自分を責めたこともあります。しかし、野球選手としては確かに失敗だったけど、1人の人間として人生でみるとまだ失敗とは言い切るには早すぎると思ってます。

このまま一生過去に後悔し、言い訳したり逃げれば失敗だと思います。僕は負けたままで終わるのは悔しかったし人生で1度は夢を叶える瞬間を味わい。だから、過去を受け入れて次のステージで輝くためにもう一度人生かけて挑戦して次こそは夢を叶えられたら、悔しい過去もいつか認められるはずです。

あの試合は延長14回で終わってしまったけど、人生のスコアボードは生きていく限り続きます。過去の失敗や後悔を生かすも殺すも全てはこれからの自分次第です。

人生かけて挑戦している人はかっこいいしキラキラ輝いている。それぞれが熱い想いや軸を持っていて、それを誰かに伝えるとまた何かを感じ取る人がいて良い連鎖ができます。まずは、社会に出てこれからの未来を担う僕たちの世代が、次世代の希望になるかっこいい大人となり、そんな魅力的な人を徳島から増やすのが僕の夢です。

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僕もこうゆう想いは数年前からずっと持ち続けていますが、こうしてnoteを通して自分の言葉で伝えるのは初めてです。この想いに何かを感じていただける人がいれば嬉しいです。まだ大した結果は出していませんが、少しは僕もできることが増え、伝えられることもあると思うので、その経験や話をこれから多くの人に届けていきたいと思ってます。もし興味持っていただいた方や質問などある方がいましたら是非連絡してきてください。


とても長い文章読んでいただきありがとうございます。

今後も頻繁に投稿していくのでまた見ていただければ嬉しいです。


2020.5.2  Daigo Harada

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