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55歳でフランス人と結婚した母の生涯

前回のトゥールーズまで、過ごしたことのあるフランスの20都市(街)の紹介をしてきた。これは前に書いたように数年前に書き留めていたもので、この20回目で最後の街となる。
最後のトゥールーズでは母との別れについて書いたので、ここで母がどんな人生を送ったか、振り返ってみたいと思う。

母は終戦間際に東京で生まれた。
恵まれた家庭に育ち、中学・高校・大学と、いい学校を順調に卒業した。
学生時代の母は、あまり旧来の考え方にとらわれず、自由な発言でみんなを先導していくような存在だったようだ。これは母が亡くなった後に、それ以降も懇意にしていただいている母の当時の友人から聞いた。おそらくだが、当時の女性としては目立つ存在だったのではないかと思う。
そして当時から、英語やフランス語にとても興味があり、勉強していたようだ。

自然が好きな母は、大学で山岳部に入った。ここで私の父親と知り合い、結婚することになる。
母は日記をよく書き残している人で、私が生まれた当時のことも日記が残っている。それを見ると、慣れない料理をしてレシピやメニューをメモしていたり、赤ちゃんである私の様子をずっととりとめもなく書いていたり、いかにもかわいらしくいじらしい様子で、自分の母のことながら微笑ましく、こそばゆい感じだ。

自分が小学生の時は、横浜に住んでいた。3つ下の弟と4人家族で楽しく暮らしていた。母の人生の中でも、とても幸せだった数年間だと思う。実際、自分だって楽しい日々だった。

自分が小学校4年生の頃、状況が変わる。父親の実家の会社が倒産してしまい、その諸々の処理が我が家に降りかかってきたのだ。
子供心には事情はわからないなりにも、どうにもならない不幸がじわじわと押し寄せているようには感じていた。
夜逃げをしたおばあちゃんの家が荒れ果てた廃墟になってしまっているのを見た時、その光景は、今でも目にはっきりと焼き付いている。馴染みのある部屋や、家具がぼろぼろに朽ち果てている様子は、これからの運命を暗示するようで、象徴的に悲しかった。
それらが予感させたわけでもないが、連鎖は止まらなかった。
ごたごたが一段落して、そのおばあちゃんの家だったところに新たに家を建てて引っ越したのとほぼ同時に、父と母が離婚した。

自分が6年生の時だった。
「そこに座りなさい」
と母に呼ばれて、涙ながらに離婚することになったことを告げられた。
自分は6年生なので、意味は理解していて、でも泣くでもなく、なんだか困ったことになったなぁと思い、天井を見た記憶がある。

ここからの数年間は母にとって辛い日々だった。
今までまともに働いたこともないのに、子供を養うために仕事を探さなければいけない。
かつて勉強していた語学を生かし、人づてを頼って働き始めたが、やはり初めはなかなかうまくいかなかったようだ。
この頃、母親は精神的にも参っていて、毎晩ボトルを開ける勢いで酒を飲んでは泥酔していた。
そして、当時中学生だった自分に全ての愚痴と恨み言をぶつけていた。
自分としては、酒を飲んでそんなことを言う母親は好きではなかった。実際本人にもそう言っていた気がする。その一方で、自分を大人として見てくれているようで、頼られているのは、それ自体は悪い気はしなかった。
ただそれ以降、私はあまりお酒の存在自体が好きではなくなってしまった。実際自分は飲まないし、母親がのちに癌になったのも、絶対この時の深酒が良くなかったのではないかと思っている。

自分が高校生・大学生になる頃には母の仕事も軌道に乗ったようで、あまり以前のように酒に溺れるようなことは無くなって、明るい母になった。
実際にどんな仕事をしていたのかは自分もあまりよく知らないのだが、それなりにいろいろなところで活躍していたようだ。
母は、私の友人などにも積極的に話しかけにいくようなタイプで、何度か母の呼びかけで自分の友達たちを招いて自宅でクリスマスパーティーをした記憶がある。高校生の頃など、自分としてはそういうのは気恥ずかしいところもあるのだが、母が心底楽しそうにして、また友達たちも気を遣って母に話を合わせてくれたりしていて、そんな様子は今考えるといい時間だったような気がする。

自分と弟は、ほぼ同時に就職した。すなわち、母はもう誰かを養うために働く必要がなくなった。
と同時に、母は自分のやりたいことを叶えたくなったようで、すなわち、フランスに行ってフランス語を勉強するという昔からの夢を実現させようと思った。
縁というものはあるもので、そう思い立ったちょうどその時、パリにいる母の友人から声をかけられ、とんとん拍子に本当にフランスに行くことになった。

母がパリで数年過ごして、まあ色々経験したしもう帰ろうかと思っていた時、日本にいた頃から趣味で続けている社交ダンスの、フランス人のパートナーから結婚を申し込まれる。この時、55歳だった。

ある日、朝の四時ごろ電話が鳴って起こされ、出ると母が
「あのね、あたし結婚することになった」
と得意げな感じで伝えてきた。
一刻も早く伝えたかったのか、こちらの時間も関係なくかけてきたようだ。
こちらは明け方に叩き起こされてわけが分かっていず「ああそう。おめでとう。よかったね。」とだけ言って電話を切ったのを覚えている。

一回だけ、母の旦那のアンドレは日本に来たことがある。2人の結婚式の前だ。
とても素晴らしい人柄に、日本の家族は全員がアンドレのことを大好きになった。
ただ、困ったことにアンドレはフランス語以外のあらゆる言語を一切話すことができない。自分としては、観光英語くらいの感覚でコミュニケーションをとるつもりだったが、冗談抜きで「Drink it」「Sit down please」も全くわからないのだ。
そこで自分は意を決してフランス語を勉強し始めた。目的はアンドレと話せるようになる、その一点である。

パリで母親の結婚式があり、それに弟と一緒に出向いた。弟は結婚していたが、自分はまだだったので、まさか母に先を越されるとは、と思ったものである。
アンドレの親族たちもとてもよくしてくれて、歓迎してくれた。
ほんの数年前、地獄みたいな精神状態だった人が、今こんなフランスのお城みたいなところでダンスパーティーの主人公になっているのが、なんだか不思議な気分だった。

アンドレは何においても母のことを一番大切にしてくれた。買い物に行く時も、ダンスに行く時も、息子夫婦と一緒にいる時も、常にきちんと愛をもって母を気遣っていたと思う。それがとても自然で、振る舞いとしても大人で、男性として立派なことだと思ったのを覚えている。

「あたし、ガンになったのよ」と、これも唐突に電話がかかってきた。
「それは、どういう状態なの」「大丈夫なの」「死なないの」今回は矢継ぎ早に聞いた。今考えると、そんなことを当の本人に問い詰めたってしょうがないのだが、やはり動転していたんだと思う。
まさか、そんなことないだろう。
やっと、こんなに幸せなのに。
自分は、電話の後すぐにフランスに行くことを決めた。当時は息子がまだ2歳で、まぁ覚えてないだろうし飛行機大変だし、しばらくフランスにはいけないねなどと言っていたのだが、そんなことも言っていられない。すぐに2歳児のパスポートも作って、当時引っ越していた南仏のサンタンドレの家に行った。

母は拍子抜けするほど元気だった。
とても病気なようには見えない。母はひどく喜んで、孫の長男と遊んでいた。滞在の間、色々なところに連れて行っては、息子夫婦と孫の世話を焼いてくれた。

次の冬、フランスで母が知り合った日本人の友人のよしこさんから、涙ながらに電話があった。病状が悪化していると。すぐにまたフランスに行った。
元気だった。
ただ、この時には分かっていなかったのだが、手術の際、大腸から肝臓に転移してしまった腫瘍が見つかり、もう手の施しようがなくなっていたようだった。

次の7月。
やはり病状が悪いらしい知らせを受けて、再度家族でフランスに行った。
元気ではなかった。
見る影もなかった。
痩せ細って、お腹に水が溜まって、動くのもままならない様子だった。
正直、これまでは、病気であるとは言っても全く元気な様子だったので、あまり実感はなかったのだが、さすがに今回は何かを突きつけられたような気分だった。
でも、不思議なもので、でもこれは一時的なものでなんとかまだ回復できるだろう、と半ば本気でそう思っていた。

2ヶ月後の9月。
危篤の知らせを受け、トゥールーズの病院に向かった。
前回会った時とは比べ物にならないくらいひどい状態だった。
自分が着いてから一週間後に母は亡くなった。
トゥールーズの紹介の中でも書いたように、1日ごとに母はどんどん容態が悪化し、見た目も様子も明らかに終わりに近づいているのが目に見えた。
そんな状態でも、それでもなお、70%くらいは本気で、まだ急に良くなるんじゃないか、と自分は思っていた。

母は起きている時間よりも寝ている時間の方が圧倒的に長くなり、それでも起きている時はとりとめもない話をした。
こんな状態でも、本当に昔のことも、母が子供の頃のことすらよく覚えている。本当に人間の脳というのはすごいものである。

アンドレも誰もいず、病室に母と二人きりの時に、終わりは訪れた。
夕暮れの深い光が差し込む中。
わかりやすく、息がこの瞬間から止まってしまった。
抱きかかえた。身体は熱い。でも今息が止まった。
こんな60年間生きてきて、その全てが全部入っているこの脳は、この今息が止まって、あとほんの数分後にはもうただの土になるんだ。
母親はこちらを振り返らず行ってしまった。
おそらく、息をする力もなくなってしまって、自分でも気づかないまま眠るように息を引き取ったのだと思う。

フランスの病院は、人工呼吸器的なものはつけないので、よくドラマなどで見る心電図のピーみたいなものではなく、本当に自分の腕の中で息が止まって亡くなった。自分の親をこういうふうに看取るとは、想像もしていなかった。

自分は、そのあたりで少しバランスがおかしくなっていたのだと思う。涙が一切出なかった。
あの温厚なアンドレが、焦燥しきって大声で泣きながら母親を抱き抱えて泣いている時も、涙は出なかった。自分は結局、そのまま日本に帰っても泣くことがなかった。

その後数年後、家族を連れて、アンドレがいるポルティラーニュを訪ねた。本当だったら、母が引っ越していたはずの、月の形の窓の家だ。
アンドレはぼくたち家族を心から愛してくれて、なんでも面倒を見て、色々なところへ連れて行ってくれ、世話を焼いてくれた。
南フランスの日差しと陽気の中、テラスで食事をとりながらゆっくりしている時に、あ、この時間は母が遺してくれたものなんだな、とふと思った。
こんなふうに、当然のようにフランスの普通の家庭の中で、何も心配することなく、全ての愛情と好意を受けて、心からゆっくりできる環境で今過ごすことができるのは、全部母親がいたからなんだ。
こういうのが生きた遺産なんだよなぁ。。とアンドレとも話をして、まさにその通りだと語り合った。そう。この頃には、フランス語で母親の葬式を出したり、アンドレと深めの人生論を交わすこともできるようになっていたが、これだって母親の遺産なわけである。

アンドレの家があるポルティラーニュの街の中に、母のお墓があり、訪ねた。
家族で行ってお花をあげて、その後、もう一回一人で訪ねた。
小さなお墓の前で一人で立っていたら、涙が溢れてきて止まらなくなった。
一人で嗚咽して泣いていたと思う。

なんであなたは今ここにいないのか、なぜこんな小さな中に入ってしまっていて石のように返事もできないのか。

母が亡くなってから数年間、一滴の涙も出なかったのに、どういうわけかこの時、止まっていた時が動き出したように、誰もいない墓場でひとり泣いていた。

母はやっぱりいなくなってしまったんだな。
もう、この大好きなフランスでダンスをすることもないし、成長する孫の様子も見せてやれないんだ。
母の存在ってなんだったんだろうな。
お墓を後にして、家に向かって歩きながらそんなことを思った。

母の存在。
ただ一つ確実に言えるのは、母は私たち家族にとって、あれから何年も経った今でも、前と変わらず身近な存在であり続けている、ということだ。
なにしろ、会ったこともない次男や長女だって、母のことはよく知っている。
単純に思い出があるということではなくて、母の存在はしっかり形のある現在のものとして、ちゃんと生き続けている気がする。
こういうのはなかなかできることじゃないんじゃないかと思う。誇らしい。


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