積読は続くよ、どこまでも―読書月記39

(敬称略)

この3か月、読書がスランプだ。だいたい平均の5~6割ぐらいの量しか読めていない。理由はいろいろだが、それでも今月はやや上向いてきている。
ただ、積読の本が溜まるスピードが速い。スランプでなくても積読の本が溜まっていくのだから、スランプになればそれが加速する。買うのをやめればいいのだが、なかなか難しい。
理由は簡単で、不安なのだ。

私の10~20代は、1970~1990年にだいたい重なるが、当時は、今と本の入手に関して事情がかなり違っている。
違いの一つは金銭だ。中学生から社会人になって数年ぐらいは、単純に金があまりなかった。前回も書いたが、単行本を買えるようになったのは高校生ぐらいからだし、社会人になってしばらくして、大島弓子選集が毎月2冊ずつ刊行されたけど、買うのがけっこう大変だったことを覚えている(消費税はなかったけど、1冊1100円だったので月に2200円)。
もう一つの問題は、絶版・品切。単行本を買えるといっても、実際に買うのは文庫中心だったが、絶版・品切で入手できないものがかなりあった。岩波文庫は定期的に復刊をしていたが、新潮文庫や角川文庫が大掛かりな復刊を行うのは1990年代に入ってからだと記憶している。また、当時はインターネットがなかったので、絶版・品切の文庫本は古書店で見つけるしかなかった。1980年代後半には東京で仕事をしていたので、休日になると神保町、早稲田界隈の古書店を歩き回ったが、文庫を扱っているところは少なく、しかも、古書店街で文庫を扱っている場合、絶版・品切で人気のあるものの情報を古書店サイドも知っていて、1冊1000~2000円ぐらいの値がついていて、上中下3巻セットだと5000円、全4冊で8000円というのもあったと記憶している。それでも、あるだけましで、全く見ることがないものもあった。例えば、フックスの『風俗の歴史』全9巻は復刊するまでは古書店で端本を見ただけで、見たことのない巻が半数を占めていた。単行本でも、篠田一士の『作品について』を価格で迷って買わなかったら、それから2~3年出会うことがなかった。
そういった経験が積み重なっていたので、本は出た時に、将来読む可能性があれば、できるだけ買う。古書でも、金額面をクリアできたら買う、という癖がついてしまった。それでも、刊行時点で興味の埒外だとどうしようもない。

例えば、リチャード・バックルの『ディアギレフ』は1984年の刊行だが、私が購入したのは2006年。探し始めた当初はどこにもなかったが、数か月後に、日本の古本屋に出品されていた。上下セットで6300円だったが、その後、アマゾンでこの20倍の価格で出品されていたし、最近はともかく一時期は上下で20000円前後辺りが多かった。
ブルース・チャトウィンに関しては、篠田一士が著書のなかで触れてくれていたので、1990年代に買いそろえていたが、『パタゴニア』『ソングライン』を含め一時期は、古書価がかなり高かった記憶がある。
近年は、電子書籍が刊行されたり、金銭面がクリアできれば、インターネットを駆使して、かなりの確率で見つけることが可能だ。公立図書館の蔵書検索もネットなどで簡単にでき、借りるという選択肢もある。国会図書館へのアクセスも地方にいても可能だ。デジタルで閲覧できる書籍・資料もある。

ただ、それでも若いころの癖はなかなか抜けない。すごく好きな作家の本、どうしても欲しいジャンルの本は新刊で買ってしまう。斎藤緑雨は、著者のためには買わずとも読め、書肆のためには読まずとも買えと言ったそうだが、著者のためにはやはり買うべきだろう。そうでないと作家活動が続けられない。また、そうでなくても、新刊時に電子書籍がないと、つい買ってしまう。そして、本を買うということは、積読を増やすということは、今よく言われている、断捨離だとか「片付け」とは真逆だ。家に本が溢れ、空いた場所が減り、場合によっては、買ったことは確かだが、どこにあるのか分からない場合さえある(先日、まさしくその状況がおき、2週間ぐらい探し続けた。どうしても見つからない場合に備え、電子書籍の有無や古本の在庫もチェックした)。ある種の〝常識人〟から見れば、病気とも思われそうだが、仕方ない。憑かれているといった方がいいかもしれない。
時に、残りの人生を考えると、どうせ読めないのだから、買うのをやめろ、という声が時に脳内に響く。その声に一時期だけ従うことがあるものの、気付くともとの木阿弥。
まさしく、積読は続くよ、どこまでも…

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