『鬼の筆』を読みながら考えた、映像化の功罪―読書月記50

(敬称略)

先月、本(活字メディア)と映画(映像メディア)を中心に論じた『夢想の研究』について書いたが、そのすぐ後、脚本家・映画監督の橋本忍についての評伝『鬼の筆』を読んだ。日本映画に関して多少の知識があれば、橋本忍の名を知らぬ人はいないだろう。橋本は多くの作品の脚本を手掛けているが、原作ありの作品がかなり多く、そういった意味では『夢想の研究』の内容と通じる部分があったし、橋本の原作の読み込み、脚色における〝腕力〟など興味深いことが多かった。

私が最初に橋本の名を知ったのは、映画『砂の器』だ。原作を読んでから映画を観たのだが、とにかく驚いた。原作の設定がいくつか変更されており、またミスリードに関わる描写は一切なく、ミステリーとしての面白味は減じていたが、圧倒的な映像と音楽、特に終盤部の力強さは素晴らしかった。『鬼の筆』でも、『砂の器』に関する記述は多い。なかでも、橋本が編集段階で、父と子の放浪シーンの台詞をすべてカットしたのは、脚本家であることを考えると凄まじい話だ。また、共同で脚本を担当した山田洋次の証言もかなり詳細で、興味深い。

ただ、ここで小説『砂の器』についても触れておきたい。松本清張の代表作として紹介されるのは、だいたい『ゼロの焦点』『点と線』、そして『砂の器』の名が挙がることが多い(私が3作選ぶなら、『ゼロの焦点』と『点と線』はそのままに、『砂の器』ではなく『日本の黒い霧』を挙げる)。Amazonで、その『砂の器』を「本」という条件で検索すると、新潮文庫がヒットし、「清張文学の金字塔、日本ミステリー史上最高傑作」という文字が躍っている。まあ、出版社が書く謳い文句はどう書いてもいいのだけど、私の個人的意見では、清張作品の中でも『砂の器』は、『ゼロの焦点』『点と線』に比べると落ちる(これは私だけの評価ではない。古い例で恐縮だが、1985年に「週刊文春」で発表された「東西ミステリーベスト100」を文庫化したものでは、日本ミステリーの中では『点と線』が3位で、『ゼロの焦点』は15位、『砂の器』は53位)。当然だが、「日本ミステリー史上最高傑作」ではないと考える。かなりのミステリー好きな人で、小説『砂の器』を「日本ミステリー史上最高傑作」どころか、トップ10としている人さえ私は知らない(映画『砂の器』を日本映画トップ10に選ぶ人は、それなりにいるだろう)。もちろん、評価は人それぞれだから構わないのだけど、問題なのは、あのような謳い文句に踊らされて清張の小説の入り口として『砂の器』を最初に読んだり、日本ミステリーの入り口として『砂の器』を最初に読んだりする人がいる可能性があることだ。そして、「清張ってこんなものなの」「日本ミステリーってこんなものなの」という判断が下されて、清張の作品は二度と読まない、日本のミステリーなんてもう読まない、という人が出てきてしまうかもしれない。私は、子ども向けにリライトされたものではないミステリーで、最初に読んだのはエラリー・クイーンの『Yの悲劇』だったが、もし『盤面の敵』が最初だったらそのままクイーンを読み続けていただろうか、と考えることがある。もちろん、そこで絶対に終わっていた、とまでは言わないが、『Yの悲劇』でも『盤面の敵』でも結果が同じだとは思えない。

ちょっと違うけど、こういった事例もある。
1970年代、横溝正史原作のミステリーが次々と映画化され、横溝ブームの時、そのほとんどの作品が文庫化されたようだけど、当然だが作品によっては出来不出来がある。その不出来な作品を最初に読んでしまうと「横溝ってつまらない」という人が出てくる可能性が増える、それは横溝にとっては不幸なのでは、といった主旨のことを書いていた人がいたと記憶している。
赤川次郎の『三毛猫ホームズの推理』も最初のドラマの影響で、ユーモア色の強い作品だと思っている人もいるようだが、小説は全く違う雰囲気だ。実際、大林宣彦が原作の雰囲気をかなり忠実に再現したドラマ版の『三毛猫ホームズの推理』を見ると、”ユーモアミステリー”とは全く違っている。しかし、最初のドラマの印象が独り歩きし、ユーモアミステリーとして毛嫌いして手に取らない人もいるだろう(大林版を見るまで、私もその一人で、ドラマを視聴後、小説を読んで印象を改めた)。そして、それは赤川次郎自身にまで及び、『三毛猫ホームズの推理』どころか『マリオネットの罠』なども読まずに、赤川を否定的に評価する人には、幾人となく出会った(私が知る限りコアなミステリファンは、だいたい『マリオネットの罠』は読んでいるので、それほど否定的ではない)。
どちらにしても、映像化の影響は単純ではないのだ。

優れた原作だからといって、映像化された作品が優れた作品になるとは限らない。それどころか、成功しない場合が多い。公開時に称賛された映画『泥の河』も原作を読んだ人に話をきくと、小説に軍配を上げていた。優れた原作を映画(映像化作品)が越えるのは難しい。しかし、一方で、あまたある原作付きの映像化された作品群のなかには、傑作とまでは言えない原作を優れた映像作品に仕上げたものもある。私は『砂の器』がそうだと思っている。これは私だけの意見ではない。先に挙げた『東西ミステリーベスト100』の273ページに、『砂の器』の"あらすじ"とともに"うんちく"(寸評みたいなもの)が掲載されており、そこでも「映画化され大ヒット、以後、原作の株も上がった」と書かれている。まあ、映像化したスタッフが素晴らしかった、ということだ。

ただやっかいなのは、原作を読む前に映像化された作品を観た場合、がっかりするような映像化作品を観て原作に手を伸ばす人よりも、優れた映像化作品を観て原作に手を伸ばす人の方が、圧倒的に多いように思えることだ。その結果は……。
だいたい、原作となった小説と映像化作品は、映像化作品がどれだけ原作に忠実に作られたとしても、完全に別のものである。しかし、二つを切り離して考えるべきだという人は、残念ながら多くない。

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