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自分のこれまでの人生を振り返る

Primaryのハギワラダイチと申します!
不動産仲介営業経験0で不動産会社を立ち上げ、次世代不動産仲介事業をつくっております!

それと同時に、現在、コーチングスクールにて、コーチングを学んでおります。

コーチとは、クライアントの人生に触れ、人生を変える仕事です。
そんな仕事をする上で、自分自身の人生に向き合うことは必須です。
自分の人生に向き合う一環として、ここまでの31年の人生を振り返ってみようと思います。
振り返る中で気づいてしまった黒歴史もあります。
どこまでも中途半端でやりきれていない自分と向き合うことになりました。(笑)
その一方で、変わらず自分の中にある「ついやってしまうこと(Want To)」にも気づくことができました。

人生を振り返って昔も今も変わらずやっていること、やってしまうことにこそ、自分の本音があります。

先に結論!

自分がこれまでの人生を通して変わらない部分はなにか?です。

振り返る中で気付いた僕の変わらない部分はこちらです。

「プロセス管理」
「好奇心」
「勝負好き」
「周りと違うことをする」
まだまだ統合できる項目や、もっと適した言葉があるかもしれませんが上記の5つは昔から今に至るまでずっと自分の価値観として持ち続けています。

それでは実際に小さい頃から今に至るまで振り返っていきます。

幼少期〜小学校低学年

宮崎県宮崎市で3人兄弟の末っ子として生まれました。
家族は、このようなメンバーです。
・専業主婦の母(趣味はドラクエ)
・地方の広告代理店で働く父(後に48歳で脱サラ起業)
・5歳上の長男(サッカー一筋)
・4歳上の次男(我が道を行くクリエイティブタイプ)
・僕


兄弟3人の写真


僕は、父親が大好きかつ次男に憧れてた子供でした。
口癖は、「それってある意味、OOだよね!」でした。
聞いた話を自分の言葉で言い換えること、
自分が思ったこと伝えたいと思っていたのだと思います。

兄たちと年が離れていたため、一緒に遊びたいけど遊んでもらえず、近所に同級生もいないため、兄たちと一緒に遊べる自分でありたいと思っていたのだと思います。
一緒に仲間に入れてもらえると嬉しい!逆だと悲しくて泣いていました。
承認欲求強めな幼少期だったと思います。

父にかまってもらうことが一番の楽しみだったように記憶してます。
父親が仕事から帰宅すると、すでに一度お風呂に入っていたにも関わらずもう一度、父と話すためにお風呂に入っていました。

そこで、父の話を聞き、「それはある意味、OOだよね!」と言ってました。笑

また、兄たちが両親から怒られることをずっと観察していたので、
「こういうことをすると怒られる!」ということを無意識で理解していました。
そのため、両親から怒られたことは少なかったです。(両親にも確認済)

また、4つ上の次男に憧れており、兄と同じスポーツをしたい!と思い、バスケを小学4年生から始めました。その他、ゲームも兄貴と同じものをしていました。次男はゲームをやり込むタイプなこともあり、「スマブラ」も「鉄拳」もボコボコにされていつも泣いていました。

まじで毎回ないてた

でも数日たつと、勝負を挑みまたボコボコにされていました。
兄と遊びたい気持ちと、なぜか勝負する前は勝てる気がいつもしていました。

また、長男が所属するサッカー少年団の父親たちの飲み会に参加していました。
「サッカー応援」という名のフリをした「飲み会」でした。
そこに参加している子供は僕だけでした。

普段と違う環境にいることが楽しかったようです。
特に、
・学校では聞けない話を聞ける
・酔っ払った大人にお願いしたら普段食べられないフライドポテトを買ってもらえる
が嬉しかったです。

宮崎なので焼酎のボトルが基本だったのですが、作り方を指導してもらってました。飲み会の立ち振舞いを学びました。

いいキャッチコピー

小さいころは、大人といた記憶の方が強いです。同級生とも遊ぶ時間の方が多かったと思いますが、記憶に残っていることは家族や大人といる時間です。

父からもびっくりされるほどの負けず嫌いでした。
・庭でパターゴルフ
・将棋
など色々な遊びをしていましたが、ハンデをもらうことから嫌がっていました。そして負けては悔しくて泣いていました。

他にも覚えていることは、次男のマンガを次男に隠れて読んでいた記憶です。次男のマンガを、勝手に読むことは禁止されていました。兄マジ怖ったです

バレたら怒られるにも関わらず黙って読んでいた理由は、
自分のしたい行動を人から「コントロールされない」ためでした。
自分の行動は自分で決定して「コントロールする」が自分にとってとても大事なことです。
(コーチと深堀りした結果、プロセス管理という言葉に変化しました)

ちなみに、高校生のときは、学校の教育理念を瞑目状態で聞く時間が苦痛でした。そのためあの手この手で聞かないようにしていました。
これも、自分の行動や意思を「コントロールされない」ためだったと思います。

新しい体験への好奇心も強い子供でした。

・夜、初めてご近所を一人で歩いたときのドキドキ感
・同級生の大石宅へのお泊り
知らない世界に飛び込むこと自体が楽しかったようです。父たちの飲み会が好きだったのも知らない世界に行けるからだったと思います。

今も、新しい価値観や場所を訪れることで自分の感情が大きく揺れることや新しい感情に出会えることが大好きです。

「未知への好奇心」安武秀記

中学校時代

中学生時代は、部活でバスケに夢中でした。
人生で初めて熱量を燃やして取り組んだ経験だと思ってます。


今もバイブル

ほぼバスケ漬けでした。
学校で一番厳しい部活でした。
・昼休みは、理科室で筋トレ(顧問のI橋先生が理科担当)
・授業が終わり次第、走って部活にいき、閉門ギリギリまで練習
・走り込みは他の部活の倍以上
・毎日バスケ日誌の記入・提出

走り過ぎて、中3の体力測定の20mシャトルランで、学校歴代記録出しました。

礼儀や服装にも非常に厳しかったです。
・目上の人と廊下ですれ違ったら、立ち止まって挨拶
・学ランのボタンなんて開けてたら、人生終了

試合では、猪突猛進に攻めるタイプで、パスをするより自分で点を取りたいタイプでした。

目標は県大会優勝でしたが、結果は市ベスト4レベルでした。
今、思うと自分にもチーム自体にも、自己効力感(目標を達成するための能力を自らが持っていると認識すること)がなかったため、目標というより妄想でした。

そのため、「自分で点を取るという方法論しかわからなかった。」が正確な表現だと思います。

よく自己主張(自分はこうした方がいいと思う)をチームメンバーに伝えていた記憶があります。
今と違い、どうやったら相手が行動するように伝えるかが全くわかっておらず、衝突しておりました。
衝突しても、辞めずに伝えた気がします。

「自分はこうした方がいいと思う」≒「自分がいいものをおすすめする」なので、この頃から人におすすめせずにはいられなかったようです。

部活終了後は、それなりに受験勉強をして、家から一番近い進学校に行くことにしました。

高校を選んだ理由

高校時代

ボートレーサーを目指して8kg減量した1年間

高校時代の思い出は、なんと言ってもボートレーサー(競艇選手)を目指したことです。

ダイナマイト ボートレース!

バスケへの情熱は中学で燃え尽きました。
といっても他にやりたい部活もなく、惰性でバスケ部に入ることにしました。ですが結局1年生の9月で辞めました。

理由は、2つです。
・バスケを仕事にしたいと思えなかった
・ださいプライド(バスケ初心者が学年が上という理由でベンチ入り)

長男はプロサッカー選手になるためにサッカーし、次男は漫画家になるために美大に進学しました。
そんな2人を見ていたからこそ、将来したいことに、つながっていないバスケにやる気が出ませんでした。

それくらいなら、放課後に友達とカラオケに行きたかったのです。(笑)

あとは、3年生が引退後の新チームの初回の大会でベンチ入りできなかったこともありました。
自分より下手だと思っていた初心者の先輩がベンチ入りしたことで実力主義ではないことが嫌でした。
今にして思えば、監督が納得する実力があればよいだけですね。

バスケ部を辞めてから3〜4ヶ月は、友達と放課後教室で時間を潰したり、カラオケにいってました。
学生生活を謳歌していると、ある日父親から急に、次のことを言われました。

父「やりたいことを見つけるか、勉強するかどっちかにしろ!」

僕は、
「これは困った・・・」
「勉強なんか全然したくない・・・」
「いままで、放置だったのに急にどうしたの?おやじぃ・・・」
となりました。

勉強はしたくなかったので、「なりたい職業|やりたいこと」を探すことにしました。

今でも鮮明に覚えています。
高校1年生の1月3日深夜に「なりたい職業」が降ってきました。

三が日も終わり、布団に入っていたところ、
急に「ボートレーサー(競艇選手)になりたい」という職業が降ってきました。

自分の特徴である「勝負に燃える」「理系が得意」「運動得意」とボートレーサーに求められる能力が一致しているように思いました。
マンガ「モンキーターン」を読んでいたこと、父のクライアント先に場外舟券売り場があったためボートレースを身近に感じていたことも要因だったとは思います。

めっちゃ面白いから読んでほしい

このまま寝てしまうと、忘れてしまうと思い、誰かに表明しなければと思い、リビングに行きました。

すると、帰省中の次男がまだ起きていました。

僕「あのさ、俺、ボートレーサー目指すことにする!」
次男「お、おう?」
僕「それじゃおやすみ!!」
次男「???」

兄は、多分こんな感じだったと思う

そう言って寝ることにしました。
ここから僕のボートレーサーを目指す生活が始まりました。
どうやったらボートレーサーになれるか調べたところ、

  • 福岡にある養成所に入学し卒業する必要がある

  • 入学の倍率は、30倍程度

  • 身長、体重、視力の制限がある

    • 18歳以下は、168cm以下体重54kg以下

    • 視力裸眼で0.8以上(レーシックOK)

  • 運動能力検査と筆記試験に合格する必要あり

とのことでした。
僕の場合、下記3つが大きな壁でした。

  1. 身長:当時167.8cm

  2. 体重:当時62kg

  3. 視力:当時0.1以下

ちなみに高校生なので、腹筋も割れてるくらいの体脂肪率でした。(多分、12%くらい)

まず、「1. 身長」です。
18歳以下で受験をするには、168cm以下でなければなりませんでした。
それまで毎年1〜2cmほど伸びていたのですが、競艇選手を目指してから身長が1mmも伸びませんでした。(人間の潜在能力すごい!w)

競艇選手になれないとわかってからは、また身長が伸びました。あの時がなかったら今ごろもっと身長高かったかもしれません(笑)

次に、「2. 体重」です。
これが一番しんどかったです。
ダイエットではなく、減量だったからです。
健康体から胃袋を小さくして体重を減らしていく作業でした。

当時の体重は先程も記載した通り62kg!
全く太ってはおらずどちらかといえば、筋肉質な方でした。
筋肉が付きやすい体質かつ中学生の昼休みをバスケ部で筋トレしていたからですね(笑)

そんな育ち盛りの高校生が体重8kg落とすことになりました。
当時は独学で、色々な減量方法を試していました。

このスープダイエットやってた 。最後の日までいったことない。

食欲との戦う大変さを思い知りました。
ずっと56kgあたりを彷徨っていました。たしか一度だけ水抜き状態で54kgになりました。

今だったら、きちんとしたトレーナーをつけて取り組むと思いますが、宮崎の高校生にはそんな発想はありませんでした。

減量中は、常に立ち眩み状態でした。食欲に負けてしまうこともあり、我慢しきれず、メロンパンを食べてしまった時は罪悪感にみまわれました。
それでも体調が悪くなり、保健室で寝ていると、カレーパンを食べる夢をみて目が冷めて、帰りにカレーパンを食べ、また後悔!みたいな状態でした。

無意識の自分が心地良い状態に戻ろうとしていたんですね。

そんなこともあり、常に、「自分は本当にボートレーサーになりたいのか?」ということを自問自答する日々でした。

結果、ボートレーサーの試験を受けることもありませんでした。

それは「3.視力」です。
ボートレーサーを目指して1年が経過したころです。受験に向けて、レーシック手術をしようと検査にいきました。
※ボートレーサーはコンタクトの視力矯正は不可です。
検査結果によると、角膜の形が通常とことなっているため、レーシックできないと診断されました。
諦めきれず、他の病院でも診察を受けてみました。
しかしどこの病院も回答は同じでした。
ここで僕のボートレーサーになる道は終わりました。

なれないとわかった次の日に印象的だった出来事があります。

朝の科学の授業中でした。

それまでは、ボートレーサーになれないとわかったときから、次の感情がふわふわと浮かんでいました。
「ああ、ボートレーサーになれないのか・・・」
「でも、好きなもの好きなだけ食べれるのか。それはめっちゃ嬉しいな・・・」
「本気で自分はボートレーサーを目指してたのか??」

ところが授業中に急に、涙が溢れ出しました。止めようとしても一切止まらず、ずっと涙がでてきました。授業が終わった瞬間に、教室を飛び出て、保健室に行き、時間を忘れるほど泣きました。実際に何時間泣いていたか覚えていません。

このときに初めて、本気でボートレーサーに自分はなりたかったんだと実感しました。

自分でもびっくりするほど、切り替えることができ、そこから受験勉強に切り替えることができました。

(2024/5/6追記)ボートレーサーを目指した期間ですが、視力という外部要因が影響だとずっと思っていました。でも諦めたのは自分自身ということに気付きました。レーシックは受けれなかったのですが、ICLであれば手術の可能性はありました。東京にいく必要はあったのですが、僕から親にそれを頼むことはありませんでした。金額が高額であることを言い訳にして外部要因だと思っていました。
また、父から「なりたいものがないなら人の役に立つ仕事をしなさい。」と言われたことがずっと頭の中に残っていることにも気付きました。「人の役にたってないといけない!」というセルフトークが自分の中にあることに気づきました。

友達からハブられた経験

高校時代のもう一つの思い出は、クラスの男子8人グループから仲間はずれにされた経験です。

まさに「ある日、急にハブられた!」

私にも問題があったので、その点を謝罪しました。
ですが、向こうは、「別に怒っていないよ!」とのことでした。

「謝罪することは謝罪したから後は、相手の問題だな。これ以上、自分が相手に合わせる必要はない!」と思い、別の人たちと仲良くなりました。

学校という狭いコミュニティの中で、居場所がなくなることは結構な痛手な気はしますが、その時の私は驚くほど割り切れていました。

「周りに迎合しない」という性格が現れていたのだと思います。

この性格は、この後もあらゆるところで現れています。
例えば次の通りです。
・就活で自分だけグレーのスーツを着る
・みんなが無条件で称賛してると感じると冷める
・新卒入社2ヶ月時に、全社ミーティング(約400人)の前で、「ちゃんと発表者に対して拍手するなどの行動を示しましょう。内職とか辞めましょう。」と言う

高校生活は、ボートレーサーを目指して減量や友達からハブられる経験をしつつ、3年生では、受験勉強をして、兵庫県立大学経営学部に入学することとなりました。

大学生時代

宮崎から初めて関西に住むことになりました。
入学前に、mixiで繋がった同じ大学に入学するユウタを誘って初対面でいきなりオールしたことを覚えています。
そんなユウタは今でも大学で一番仲がいい同級生です。

ボートレーサーになれなかった自分のやりたいことってなんだろうと思っていたのですが、全く思いつかなかったため、とりあえず大学時代を同級生の4倍くらいの体験をしようと決めました。
そんなこともあり、2年間の休学含めて6年間で大学を卒業しました。

2年間の休学中はカナダに住んでいました。1年間は勉強、1年間は現地で働くといった形です。

カナダ留学前

カナダ留学前は、The 大学生でした。サークルに5つ入り、髪の毛を染めて飲み会をする!そんな学生でした。
自分の意見を話さずにはいられないので、先輩と話す時も、他の同級生が聞き役にまわる中、自分の意見を先輩たちに話していました。

大学生らしいことは一通りした感覚があったので、なにか突拍子もないチャレンジをしたくなりました。

そんな時に、思いついたことが留学でした。
ちなみにその時の私の英語力はひどかったです。
・苦手科目は英語(センター試験は平均点以下)
・TOEIC315点(鉛筆転がした先輩に負けたレベル)
・海外行ったことなし。

絶望的に英語はできない。交換留学なんていけるわけもない。
でも人と話したいすることは好き。海外いけばなんとかなるんじゃないか?と思っていました。

そんな中、カナダ留学から帰ってきた先輩から、カナダ現地の留学会社を紹介してもらいました。そこでカナダの留学会社を経営しているYuyaさんと出会いました。

話を聞くと、「どうせなら1年留学した方がいいよ。」と言われました。
裕福な家庭でもなかったので、最初はとりあえず1ヶ月だけ!とかも選ぶ余裕もなく、「えいや!」の気持ちで1年間留学することを決めました。

うちの大学では留学する人はほとんどおらず、休学して留学する人なんてさらに少数でした。

チャレンジせずに「その他大勢」になる方が嫌だったのだと思います。
母親からは、「もっと後でもいいんじゃない?」と言われましたが、反対を押し切りました。ちなみにカナダ滞在を延長するときも止められましたが、押し切りました。

TOEIC 315点、海外経験なし大学生のカナダ留学(学生時代)

2012年8月に人生初の海外でカナダに到着しました。
最初は1年の予定でした。しかし、結果、約2年間の滞在になりました。


バンクーバーいい街

スピーキングはもちろん、リスニングも全然できないハンディキャップがある状態からのスタートでした。

語学学校の宿題がどこなのかもわからないレベルでした。本当にひどいwww
自分書きながら、ゾッとするレベルです。

でも後戻りはできないので、学校にいる時間は死ぬ気で勉強していました。

日々が苦痛だったので、なんとか苦痛な状態から抜け出そうと必死だったように覚えています。

モチベーションとは、コンフォートゾーンに戻る力のこと

コーチングスクールで聞いた言葉ですがまさにこれだと思います。
英語が話せない状態が苦痛過ぎて、心地良い状態になるために英語を学ぶという状態だったと思います。

こう書くと、ひたすら英語しか使ってなかったように聞こえますが、
普通に日本人の友達もいたし、日本語も話してました。(笑)
決して超ストイックに英語しか話さないとかはできない人間です。

ちなみに、留学して6ヶ月目に急にリスニングができるようになった日があったことも覚えています。
ブラジル人の友達と毎日会話していたら急に、聞き取れる状態になりました。
ありがとうLimarcio(友人の名前)。

一番右がLimarcio。カナダで、奥さんと結婚し、子供できて離婚までしてた。真ん中は今のLimarcioの彼氏(驚)

毎日、成長を感じる日々だったことを覚えています。

そして、語学学校とビジネスカレッジを卒業しました。(約7ヶ月)
その後3ヶ月ほどアルバイト予定だったのですが、ビザが降りないトラブルが発生しました。
そこで、ワーホリビザを取得し、カナダ滞在を1年間延長しました。

2年卒業が遅れることを決断するときはドキドキしたことを覚えています。その時は、「いよいよ普通ではなくなる」と思っていました。
ワクワクする方に飛び込むことを選ぶので、ドキドキしつつも、そのまま日本に帰国する選択肢はほとんど考えていませんでした。

カナダ現地就職

カナダでは2つの仕事をしました。
1つ目は、留学に行くきっかけとなったYuyaさんの留学斡旋会社です。
2つ目は、ジャパニーズレストラン(ちなみに牛角)のServer(日本でいうホールスタッフ)です。

カナダでGyukakuは大人気。確か100万円/日とか売上あった。

下記のような生活を送っていました。
11:00〜18:00 留学斡旋会社
18:30〜24:00 牛角

たった半年で、英語がまるっきりできなかった自分が現地で働けている状態になりました。仕事でも、ネイティブの同僚の言葉遣いを真似することでどんどん成長している実感がありました。

ホールスタッフの仕事はとても楽しかったです。
カナダは、担当テーブル制度があります。
これは、ホールスタッフは自分が担当するテーブルが複数割り当てられます。そのテーブルの顧客はホールスタッフがサービスの責任を負うことです。
「プロセス管理する」ことが大好きな自分としては、どうやってお客様が満足する結果を得れるかプロセスコントロール(管理)を考えて行動することがとても楽しかったです。
さらにチップ文化もあるので、自分の仕事が数値結果に現れることも楽しさの1つでした。「勝負好き」な一面とマッチしていました。

留学斡旋会社では、Yuyaさんのサポート仕事をしていました。
単身でカナダに渡り、現地の会社で営業を経験し、その後独立した6つ上の方でした。留学当初からお世話になったこともあり、とても尊敬しています。
当時は、英語の発音から人とのコミュニケーション方法まで真似していました。(笑)

私が新しいことを始めるときは、自分にマッチする指導者を見つけることをするのですが、そのきっかけはYuyaさんを真似したことから始まっています。

この期間は、ダブルワークかつチップももらっていたので、それまで貧乏学生だった今までと違い、初めてお金の余裕がある状態になりました。
元看護師の年上の彼女もできて、楽しい日々を過ごしていました。

初めて自分でお金を払ったTOEIC専門学校

ワーホリビザの期間が満了し、帰国前に現地のTOEIC専門学校に1ヶ月通学することしました。人生初、自分で支払った学費です。
15〜20万円程度だったと思いますが、大事なお金でどきどきしたことを覚えています。なんとしても結果を出そうと思い、たくさん勉強したことを覚えています。

結果は、1ヶ月で250点くらい伸び、結果895点でした。
「留学したら、TOEIC 315点→895点になりました!」のインパクトは、就活等で留学の話をする上で役立ちました。

実は、これは失敗でもありました。現地でお世話になってるエンジニアの方と、900点超えたら、僕の就活HPをつくってもらう予定でした。(この男、即戦力という菊池さんのオマージュページ)

5点足りずという結果でした。その後も2回ほど受けましたが900点は超えませんでした。

Dropboxに保存してたスコア

帰国から就職まで

帰国後に最初に思ったことは、留学する前の想定と帰国したときの自分の差です。

留学する前は、「英語話せるようになるのかなー。TOEIC 700点くらい取れたらいいなー」程度でした。解像度がとても低かったです。
そんな私が、「現地のレストランで英語を使って働くことができ、TOEICも900点近い点数を取れた」。

この体験により自分で決めた自分の限界に意味はないなと心から思えるようになりました。自分は何者にでもなれるんだなと。脳が開放された感覚がありました。

それまでは、スポーツでも勉強でも、ボートレーサーを目指して、達成をした感覚はありませんでした。それでも言いたいことはいう。自分は「口だけ人間なのかもしれない」と思っていました。

帰国してからは、やってみたいことすべてチャレンジするということで3つやりました。

  1. 個人事業主として留学紹介ビジネス

  2. TOEIC 900点超え

  3. 神戸大学への編入

結果は、2.TOEIC 900点超えと3. 神戸大学への編入は失敗に終わりました。
どちらも心のそこから自分が求めていなかったことが大きな要因だと思います。正しい努力する方向性とそのための仕組みづくりがうまくいっていなかったためだったと思います。加えて、これらを突破する才能も特別なかったようです。

1.個人事業主として留学紹介ビジネスは、月20〜30万円程度稼げる状態にはなりました。その時は、嬉しかったです。自分がいいと思ったものを「おすすめする」が自分の特徴なので、面談から留学にいく人は多かったです。

しかし、今にして思うと本当に対したことないビジネスで終わりました。
自分の得意じゃない部分を金銭リスクを取って人にお願いすることができなかったことが一番だと思います。

とりあえず行動してみよう。どうなっても就活の足しにはなるだろうくらいの気持ちがどこかにありました。

(びっくりすることにこれを書く今までこの気持ちに気づいていませんでした)

その後、インターンで東京のITベンチャー系を複数社参加しました。
その中でリブセンスという会社と出会い、社長に惹かれて入社することにしました。

こじんまりした事業を伸ばすよりも、世の中にインパクトを与えることを掲げている会社で働いてみたいと思ったからです。
自分が世の中にインパクトを与えたい!や与えるイメージがなく、実際にそれを掲げている会社はどんな状態なのか知りたいと思いました。

リブセンス時代

ほんとにいいVision

2017年4月に入社しました。
自分では自覚なかったのですが、尖っていたそうです。

アカギのあごくらい尖ってました


自分では忘れていたエピソードがあります。
同期から言われて思い出しました。

初回の全社ミーティングに参加したときに、発表者に対して拍手が少ないかつ一部内職してる人いる状況に「これはだめだろ!」と思いました。そこで翌月の全社ミーティングの司会に名乗り出ました。

事前に全社メールにて、「発表者へのリスペクトを持って参加してほしい旨」を伝え、当日司会で、実際に拍手をするように促しました。「発表者が頑張ってるんだから聞き役はちゃんと反応しましょう!」と入社2ヶ月目の新卒がいったらしいです。尖ってる(笑)

転職口コミサービス時代(2017年4月〜2018年12月)

最初は転職口コミサービスの営業から開始しました。
架電営業をしていたのですが、嫌すぎて会社への足取りが重かったことを覚えています。今でも、好きではないですがだいぶ慣れました。

昔、上司が失注した会社になんとなく電話したところトントン拍子で話が決まり、大型受注できました。ですが、その後、効果が集まらず炎上したことを覚えています。
8ヶ月ほど営業し、同じサービスのプロダクトマネージャー(PdM)となりました。

ウェブサービスの仕組みや、企画職としての仕事が全くわからず、とにかく勉強しながら業務に取り組む日々でした。
仕組み化やイシュードリブン思考などを学び実践した期間でした。
実業務は、応募数改善のA/Bテストをひたすら回していました。

同じ部署の同期と、休日に自分たちが事業部長だったら、どんな選択をするかみたいな話をしていたことは覚えています。

あっという間に一年が経ち、今度は不動産事業部にPdMとして移動することになりました。

不動産事業部時代(2019年1月〜2021年12月)

ここで私は、合弁会社に関わる事になりました。

ミッションとしては、合弁会社の売上利益の改善でした。
不動産のことなんて1mmもわからないまま始まりました。
「反響」「実需」「市況」など、不動産ならではの言葉を覚えることから始まりました。

投資家向けの口コミサイトを作ったり、申込数の改善をしたり、営業フロー改善をしてみたりといろいろやりました。

その結果、多少の結果は出ましたが、売上や利益は数倍にするようなことはできませんでした。(黒字化には成功した程度)

ちなみに、実際にユーザー体験をしてみようと思い、マンションを実際に購入しました。ここらへんから不動産への興味が特に高まった気がします!

予算、ロードマップ策定、マネジメント、戦略立案実行など事業をする上で欠かせない要素の多くをこの時、実践することできました。
その一方でボートレーサーや中学のバスケをしているときほどの熱量がない自分もいました。

「やりたいからやる」よりも「やらないといけない」が強かったからだと思います。

そんな中、一緒に合弁会社で仕事をしていた人の退職に伴い、仕事で頼れる人がおらずメンタルがすり減っていきました。軽いうつ病の症状がでており、このまま今の会社で働くことは自分らしく生きれないと思い退職することを決意しました。

そのうち独立するだろうなと思っていたので、そのトリガーになりました。

ピアプレッシャーから脱却したフリーランス時代(2022年1月〜2023年12月)

会社を辞めること以外はなにも決めていませんでした。
業務委託で生活できることはある程度わかっていたので、恐怖心はありませんでした。

転職から起業、フリーランスなど色々な選択肢を紙に書き出してみました。そこで感じたことが、「自分の意思ではなく仕事を頑張っていなければならない圧」が存在していることでした。
その正体は、ピアプレッシャー(同調圧力)でした。
自分の周りにいる人は、仕事をバリバリしている人ばかりでした。
自分もずっと当たり前のように仕事が最優先でした。

そこで仕事の優先順位を下げてみることにしました。
業務委託で週3日程度働くことにして、残りは趣味などやりたいと思ったことをとにかくやってみることにしました。

ゴルフを50ラウンドほどしたり、友達と旅行に行き、屋形船を借りて花見をしたりなどなど、体力もお金もあるうちにやりたいことをたくさんしました。

結果は最高に楽しかったです!
いままで「やらないといけない」が常にあったことから自分で選んだ「やりたいこと・やってみたいこと」ばかりなので、開放された気分でした。

すると、不思議なもので時間が経過するにつれて、自分で事業をしたい欲がむくむくと湧いてきました。

そこで選択した領域が不動産仲介業でした。

以前の会社では、不動産会社に顧客を紹介するサービスでした。
価値はとてもあると思いますが、その一方で顧客がいい体験をできるかは、紹介された不動産営業によってとても左右されます。ここに対する歯がゆさがありました。

営業についてはやったことがない商材であってもなんかできる気がするという気持ちが常にありました。

不動産に関しては、前職時代に全体像もイメージできており、自分だったらこういう営業するかなという思いもありました。
ただ、不動産仲介営業だと、顧客の事情にとても左右されるため、自分の休日やプライベートが無くなりそうで嫌だなという気持ちでした。

不動産営業としてのみ過ごすのであれば、確かにプライベートが無くなりそうですが、不動産会社にして、組織を作れば、顧客も働く人も自分にも諦めることなく、全取りできそうだなと思いました。

短期的には忙しいかもしれないが、中長期で、なにも諦めない形は目指せるはずだと思いました。留学に行った時もそうですが、飛び込んでからの方が気づくことが多いので、やりたいならやってみる!で選択しました。

この時、大恋愛も経験しました。結果は実りませんでした。
こんなに自分が人を愛することができるんだなと実感できた経験でした。
人に向き合うこともつい自分がやってしまうことだと思います。(これは愛情依存が絡んでる気がする)

2023年の10月後半は大変でした。
・恋愛でメンタルが揺さぶられる
・親友が重度のアレルギーを持つことになり食が不自由になる
・業務委託契約が終了する

次世代不動産会社 創業(2024年1月〜現在)

コーチング学習開始

1月からコーチングの勉強も開始しました。そして4月にMindset Coachin Academyに入学しました。

コーチになろうと決めた理由は、友人と車でゴルフ場に向かう途中での会話がきっかけです。ゴルフに向かう途中の会話なんて、なにを話しても良い時間です。そんな時に、僕はコーチング的なことをしていました。
友人からも、コーチになってほしいと言われました。他の友人からも言われたことがあり、将来の自分のワイフワークの1つにコーチという職業が入るだろうなと確信しました。

ただし、コーチングを専業にするイメージはなく、自分自身のチャレンジもし続けるからこそ相手に影響を与えるコーチになりたいと思いました。
そんなときに、まさにコーチが現状の外にチャレンジすることが前提のコーチングスクールがMindset Coachin Academyでした。
前職の先輩が卒業生だったことから存在を知り、入学することになりました。

事業づくり

業務委託契約が終了した時に、新しい業務委託先を探すことにしました。
でもその一方で、乗り気ではない自分がいました。

本当は、不動産事業成長のために時間を使いたい。そう思っていました。
自分の中で、業務委託を初めたきっかけも続けている理由も、「ファイナンス」が主要因でした。

なんとか業務委託しなくていい方法がないかを模索したところ、融資とそこまでの貯金などいろいろな手段が発見され、とりあえず業務委託をせずにやれるところまでやってみることにしました。

次世代不動産事業をつくるために、日々過ごしています。
「テクノロジーを活用し、営業が顧客向き合いに専念できる仕組みを作ることで、従業員満足度と顧客満足度が最も高い次世代不動産仲介事業」にしたいと思っています。

うまくいくまでやれば、成功すると思っているのでしつこく事業をつくって伸ばしていきたいと思っています。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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