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噛まないで食べるのも、傾聴力がないのも、日記が書けないのも理由は同じだった

古賀史健さんが書いた『取材・執筆・推敲ー書く人の教科書』の第一章をKindleで読んでいた。取材についての内容であった。

なにかを読んでいるとき、そこにはかならずあなた自身による働きかけ(能動)がある。あなたは身を乗り出して「読み」に行っている。本にかぎらず、なにかを読もうとするとき人は、決して受け身ではありえない。能動こそが、読むことの前提なのだ。
ならば、こう言い換えることもできるだろう。ぼんやり街を歩いていても、ぼんやりテレビ画面を眺めていても、なにひとつ読むことはできない。それは街並みやテレビ画面を「見て」いるだけで、能動的に「読んで」いないからだ。

 古賀 史健「取材・執筆・推敲―書く人の教科書」
ダイヤモンド社.2021年4月6日 Kindle 版.p51

この内容を読んでいる時、奥さんがご飯を作ってくれていた。
Kindleを閉じ、赤ちゃんを抱っこして、奥さんが作る料理を眺めに行った。

「美味しそう」

奥さんの料理は、鶏もも肉、玉ねぎ、ほうれん草、じゃがいもが入ったトマトスープであった。
深皿にスープをそそぎ、スライスチーズを乗っけて、バジルをふりかけ、レンジに運ぶ。

料理の準備をしてもらっている間、ぼくは赤ちゃんを寝かせに寝室に行く。
いい子だった赤ちゃんは数分もしない内に目を瞑り、布団にそっと寝かせた。
戻ってきて、奥さんに「ほんとにいい子だね」と会話をして椅子に座った。

スプーンでチーズを少し沈ませつつ混ぜて、鶏肉の皮から食べた。

夕飯を食べ終わり、風呂に入った。
湯船に浸かりながら、今日のことを書こうと思って、一度出てタオルの上に置かれたスマホを手にとる。
①から②までの内容を一気に書き上げた時に、ちょっとびっくりした。
冒頭に載せた引用部分を読み、その後に意識をなるべく外に向けて、かつ目の前のことに集中したら、いつも以上に書けた。
ちょっとびっくりというのは、これだけの理由ではない。
自分が今まで悩んでいた多くのことが、この意識だけで解決する気がしたからだ。



傾聴力に自信がないのも、相手の話をちゃんと味わおうとせず、自分に意識が向いてしまっていたからだ。

健康のためにちゃんと噛んで食べようと思っても、気付いたらバクバク食べちゃうのは、目の前の料理に意識を集中していないからだ。

物忘れがひどいのも、一つ一つの自分の行動の意識が雑で、目で見たもの、触れたものを深く感じとろうとしていなかったからだ。

さっきのトマトスープの話は、目でちゃんと食べるものを見て、しっかり味わって食べたから、スラスラと文章に起こせた。
深く感じれたか否かは、文章に起こせるかどうかで判断できる。
いいアウトプットに必要なのは深いインプットなのだ。


「意識を外に向け続け、目の前のことに集中する」というのはいつでもできることではない。
例えば仕事に追われていて、逃げるように外に出て、散歩に出かけたとしよう。
この時、意識を外に向けるのは難しい。
何故なら、仕事に追われていると、やらなきゃならないことやアイディアが頭を駆け巡り、自分の頭の中に意識を向けてしまうからだ。
例えばカフェに行って本を読もうとしたら、大声で話す人が近くにいたとしよう。
すると意識は本ではなく、その人に行ってしまい、結果的にこのストレスをどうにかしようと、意識が自分に向いてしまう。
意識を自分に向けないように心を平穏に保ち、かつ集中したいものに集中をするのは、人が多く広告だらけな社会では難しそうだ。



そういえば、トマトスープを食べるよりも数時間前まで時を戻して、忘れたくないことがある。
この日、奥さんは「一人時間を堪能する日」であった。
だから夕方まで赤ちゃんと二人で過ごした。
特に好きな二人の過ごし方は、散歩に出かけることだ。

本を読む前だったのだが、この散歩を振り返ると、深く味わうことができたように思う。
光が感情にどれだけ影響を与えているのか、この日に気付くことができた。
前に曇りの日を観察した時に、目で見ているもののほとんどに影が無いように見えて、「光と影がはっきりしていないから曇りの日は気分が下がるのかなぁ」と感じたのを思い出した。

深く味わうと発見が多い。
なんでだろう、と考える癖がつく。
アウトプットしなきゃ、と思っても出てこないのは、なんにもなさそうな日常だろうと、目で見て、肌で触れて、においを嗅いで、表情をちゃんと見て、緊張は置いておいて内容に集中して、光を見て、影を見て、ググったりして、あーそうかと納得する、そんな深いインプットが足りていないからだ。 

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