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第四十六話 知るということ

こんばんワイパー
32歳男性です。


無知の知


無知の知、つまり、知らないことを自覚するということがいかに困難であることかをソクラテスは提唱した。

当たり前のことだが知らないことを知るということが知の本質であり、
その本質を本当に理解できているかどうか、実は知らないが知っているつもりになっているだけではないのか、それを追求するための言葉でもある。

いかにも哲学っぽいことを言ったが、
つまり簡単に言えば

『いろんなことを知ったかぶってませんか?』

ということだ。

個人的に知の本質は経験に根付くものだと考えている。

例えば、ギャンブル依存症になったことがない人間がギャンブル依存症について論じても全くもって無駄である。
(理解を寄せるということはできるし、精神医療や脳科学からのアプローチの場合この限りではないが。)

詰まるところ餅は餅屋ということだ。


そう。最近ワイパーは暇すぎてnote著者のいろんなnoteを読み漁っている。
(主に失恋系、恋愛系)

共感もあれば、反感もある。
が、基本的には皆文豪である。

恋愛は人を文豪にさせるのかもしれない。


考えてもみれば、働いて週末休むというルーティンをこなしている社会人にとっては恋愛ほど人の心をかき乱すものは中々ないのではないか。

言ってしまえば、恋愛をして
ンゴ〜〜〜〜〜とかンガ〜〜〜〜〜となる気持ちは恋愛をしていなければならないと考えると、むしろ貴重な経験をできているからそれを楽しむくらいの心の余裕を持つべきではないか。
そんなにうまくはいかないが…。

しかし良い時代になったものだ。
昔は一個人が自分の考え、気持ちを吐露してそれを他人に見せることなんてできなかった。
つまり他人の経験、心を知るということが必ずしも役に立つとは言えないが、自己に投影しある種の経験をフィードバックできるということだ。

それをすることによって己の精神的な部分の気づきに繋がるし、あるいは語彙力の向上なども見込めるかもしれない。


基本的に人は何も知らない状態で生まれてくる。
ゆえにスタートラインは皆無知であり、何も知らない。

そして経験を通して得ることができないことも多くある。
そう言ったものを他人の言葉で補うことができれば、
それは無知の知のち知となり得るのではないか。

そう。


無知の知のち知


である。


実は書くことがなさすぎて
無知の知のち知を言いたくてひたすら御託を並べた。


無知だとして
その無知を自覚して(無知の知)
その後に(のち)
知ることができれば何も問題ないだろう(知)

無知の知のち知

である。


正直、これを思いついた時
俺はソクラテスを超えたと思った。


こんばんは。
ソクラテス超えのワイパーです。


以上!


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