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Keep distanceと叫ぶには遅すぎる。

人々が気づくには、遅すぎた。
Social distanceが重要だと、気づくには遅すぎた。

これは、何もこの時世において、声高に喧伝されている人々の物理的な距離感のことだけではない。
確かに、高度に密集することを前提としたせせこましい店舗や電車、それらを内包する都市構造には、多分に問題がある。
しかし、それは今にわかったことではない。好きでもない人の後ろに並ばなければ、横断歩道の先に行けない都市構造は、唾棄すべきものだが、ここ100年近く打破されなかった。

そもそも、大昔から、「人」を無視した開発は始まっていたのだ。
そして、今に至るまで、その開発方針によって、整備された路線の上に、僕たちは立っている。
「コンクリートから人へ」と言った政権が自爆したように、多くの人々は、自分の払った血税が他人の支援に回されることなんて望んでいないのかもしれない。本当は。
人は他人を出し抜きたい生き物だし、他人の不幸を望んでいる。
自らの金は欲しいが、他人は助けたくないという民意が反映されているのが、現在の政治であり、社会構造なのだろう。その意味で、民主主義は実に健全に機能している。

共産主義が資本主義に勝てなかった理由は、人が金銭によって満たされる欲望に抗えなかったからではないのかもしれない。
エルメスのバーキンバッグが、ある種の人々に魅力的に映るのは、それが高級で高品質だからだけではないだろう。
それが買えない人がいるから、それを人は欲しがる。
絶対的な幸せよりも、相対的な幸せ(誰かよりは不幸でない)を見つけて、人は安心したいのだ。
尺度がなく、確認不可能性に下支えされている絶対的な幸せなんて、現代において、どこにもないし、誰も信じていないのかもしれない。
幸せな家庭を持っても、それがいつ瓦解するかは不明瞭だけれど、蓄財した確認可能な財物は、相対的に、僕らを幸せにしてくれる。
そのために、社会の多くの人々は普段でさえ会いたくない人々と、人と会うなと喧伝される時期においてさえも会っている。
人と会わなくても済むほどの蓄財をするために、人々は積極的に人と会っている。
(魅力的な異性と無二の親友以外に会いたい人はいない僕には、信じられないが)

不確実性の高いものだけを追い求めることは、それが叶うと叶わないとには無関係に、僕たちが不幸に向かう可能性を測量不能にする。
その点で、人々は社会に合理的に適合し、心の中にあったはずの春を殺し続けている。
この世界には、測量可能(に思える)虚無に彩られた数値的な幸せだけを追い求める人々が少なくない人数いるのだ。

人は必ず死ぬ。
伝染病でも死ぬし、心筋梗塞でも死ぬ。自殺でも老衰でも死ぬ。
大事なのは、納得できる死に方ができるかということだ。
少なくとも、僕にとってはそうだ。
何も感じられないのに、延命治療をされることは、周りの人々のエゴを満たす以外の効用はないように思える。
必要もないのに会いたくない人と会って死ぬのはごめんだが、明日会えるか分からない人と会っておこうと思い立ち、それに関わる理由によって死ぬことには、自己決定が内蔵されている。
(死を決定することは悲しく空しいが、扉を飛び出た瞬間、予期せず、交通事故に合うことは、多くの人々にとって、自己決定した死よりも受容し難いだろう)
大好きなあの子は、交通事故で死ぬかもしれないし、ウイルスで死ぬかもしれない。
もし、大好きな子と会って死ぬなら、本望だろう。
嫌いなやつにウイルスを移されることに比べれば。
人は元来、いつ死ぬか分からないし、不本意に死に、その死に目に誰も来てくれないかもしれないものなのだ。死ななければ、自分の周りの人々が信頼に値するか分からないなんて、皮肉なものだが、それが現実だ。
(気づいていない人は多そうだが、大切な人が二人危篤になった時、僕らはその中で、より重要な相手の下に向かうだろう)
それならば、その直前までを、会いたくもない無駄な人々と会うことに費やすことを避けるべきだ。会いたい人だけに会うべきだ。できる限り、無菌な状態で。

外出自粛が要請されて、ウイルスにかかりたくないから、誰かにウイルスを移されたくないから、自分だけでなく、他人にもそれを強制しようと試み、まるで五人組を組織した気分、もしくは秘密警察に市民を密告する気分でいる人々は気持ち悪い。
しかし、その内の何割かの無思考で無配慮な人々は、みんなが自粛しているから、あなたも当然自粛するべきという態度を表明しているような気がする。
自律した思考が持てない輩なんて、パニックになれば真っ先に犠牲になるというのに。
高度に発展した資本主義社会が内包することのできる人々の多様性に感謝しながら、唾を吐きかける。

人と人の距離で思い出すのは、高校時代の昼食の風景だ。
選択授業が終わり、教室に踏み込んだ時、クラスメイトたちが各々に弁当をあけ、おもいおもいに食べていた。
弁当というのは、家庭の象徴であり、ある種の愛の象徴だと思う。
他人に向けられた愛の匂いが充満した空間は、生理的にも、心理的にも、この上なく、気持ち悪かった。
そんな惨状を前にして、僕はいつだって、どこかそんな匂いのしないところを探して、コンビニで買ったパンを食べるのだった。
人の家の愛情は気持ち悪い。
一緒に食べようよなどと、愛なんていう大義名分を小脇に抱えて、他人の空間に土足で入り込む(物理的にも心理的にも)ような所業は、どんな時でも、フタをされるべき振る舞いだと思う。
共同空間で断りもなしに自分の作法で弁当を食べる真似だけはしたくないね。
物理空間でも情報空間でも。

パチパチ(スマートフォン時代にこの表現はないかもしれないが)書き込むSNSには、家にこもったはいいけれど、人との心理的な距離をむしろ無理やり詰める無配慮な人々がいる。人と人の距離の問題はそこに帰納されるのかもしれない。
一定数の人々は、全ての人々が友達になれるという頭空っぽな思考様式に呪われているのだ。
Keep distance
もうちょっと、距離を取れよ、デコ助野郎。声がでかい人々が、他の人を窒息させている様子が見えないのか。ネットでの距離感がわからない新参野郎は半年ROMってろ。
それか、垢消せw

「書を捨て、街に出よう」とは言えないご時世で、せめて「不要な人付き合いを捨て、必要な人付き合いを見定めよう」くらいのことは言いたい。


会いたくない人に会うくらいなら、酒を飲んでいた方がマシだろう。
(僕が誰かの会いたい人であるのかという疑問は、アルコールの海の中に投げ捨てよう)

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