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自分を生きる、をはぐくむ環境とは。南アルプス子どもの村学園フィールドワークを終えて。

子どもが産まれる予定もないし、まして結婚もしていないぼくだけど、ずっと子育てに関心がある。
子は、好奇心のままに探求し、表現しながら自分の人生を歩む。親としては、わくわく、ドキドキ、ぐるぐる、モヤモヤ。心動く物語を味わえると思う。それが楽しみで、子育てのことをよく考える。

こども・教育、というキーワードはぼくの関心のストライクゾーンにはいっている。そして、嬉しいご縁で、自由な子どもをはぐくむ学校、南アルプス子どもの村学園にフィールドワークとして訪問する機会をいただいた。

フィールドワークではたくさんの関係者を集めていただいたおかげで、切り口が豊富だった。例えば。
・授業やミーティング、寮の見学
・学園の想いの講演
・おとな(先生のこと)たちとの対話
・在学生や保護者たちとの対話

2024年1月26−27日の1泊2日、ぞろぞろと10人以上のおとなで伺ったぼくたちを受け入れてくれた加藤博さん(かとちゃん)をはじめ、南アルプス子どもの村学園には感謝でいっぱいです。

余韻の残る1/28の今日、2日間のフィールドワークで感じたことを綴ってみようと思う。

食堂・講堂のようにも使われている広いスペース。天井が高い。

愛こそすべて

いきなりだが、このフィールドワークを通じていちばん心にしみこんでいるフレーズはこれ。2日間を通して、対話をしている時間は常におとな(学園の先生)から情熱やキラキラしたものを放っていた。仕事を楽しんでいる社会人は、世の中もたくさんいる。でも、学園のおとなから伝わってくるキラキラはぼくの心の奥の方にしみ込んでくる。

見出しのとおり、その正体はこどもへの愛だ。おとなも保護者も、各々の視点をもって、異なる事情を抱えてこの場にいる。それでも、ぼくたちが円になって座ったとき、その中心にあるのはこどもに向けている大好きだよ。その想いを共有していることが保護者が学園を信じるにことに向かわせ。こどもはおとなに安心する。そしておとなはいつだってこどもを信じている。

良い点数を取れることを、じゃない。
眼の前にいるその存在を。元々備わっている無限の好奇心を信じている。

だから、こどもは自らの好奇心を純粋に探求し、楽しく遊ぶ。

南アルプスの小・中学校を卒業した後、別の公立高校に進む子もいる。
学園では、テストが無いので一般的な高校で上手に高得点をとる方法がわからない。興味が湧いた問題ばかり解いている子もいるようだ。
だから、始めは順位も下から数えて◯番目、ということもあるんだとか。

しかし、学年があがるにつれてぐんぐん成績が上がっていく。先生も怪訝に思うそうだ。考える力がはぐくまれ、好奇心を開放したこどもは、伸びる。なぜなら彼らは、誰かに与えられたしなければならないことはやってきていないから。興味をもってやりたいことを探求することができるから。

その背景には、関わっていたおとなの真っ直ぐな愛がある。

子どもに向ける愛情の集合体が、南アルプス子どもの村学園の自由なこどもを育てる文化を築いているのだろう。

愛のある言葉かけは、そのあたたかさを失わない。
卒業し、荒波の世間にでていくこどもたちの心にしっかりと根づいている。
自分を愛してくれるおとな、信じ合える仲間たちの存在を感じ、つながっているからだ。

それはテストでどれだけ高得点を取ろうが、得ることのできない財産だ。

愛情は、すべての人の中にあるとぼくは思う。友達、家族、恋人、仕事の仲間。だれでもいい。思い浮かべた人になんの損失もなく贈れるかけがえのないギフトだ。

校庭。サッカーゴールも、小屋もこどもたちの手作り。

うばわない

「南アルプスの教育を子どもが受けることは貯金です。投資じゃない。」

そう語ってくれたのは4人の子どもが南アルプスに通っている保護者の方だ。
今どき「貯金なんかするな、複利がある投資をしろ」と言われるのがスタンダードだろう。

保護者の方の話が続けて話す。
「だって投資するってことは、回収しようってことでしょう。子どもたちから一体何を回収するっていうんですか。」

子どもたちのため、と思い良い教育を受けさせようとする親はいるだろう。
しかし、子どものためという大義を表明し、一方では大人の満足にこどもを巻き込んでいないだろうか。

勉強ができれば、大企業に入れるから。
子どもが高給取りになったら幸せな生活をできるから。

その大義は、本当にこどものためなのか。
子どもが大企業に入って嬉しいのは、大人の方ではないだろうか。
大人が満足するために子どもをコントロールしてはいないだろうか。

そうやって子どもは好奇心を抑圧し、仕方なく”大人”にならざるを得なくなってはいないだろうか。

当たり前のように投資対効果を回収しようとする我々の脳内をかき回される、大切な問いをいただいた。

こどもにとって本当に大切な機会をうばわないこと。
それは、正解を与えるほどにうばうことに繋がっているのかもしれない。

かとちゃんからのトーク。柔らかい雰囲気で南アルプスの想いやスタンスをお話してくれた。

ゴールフリー

人それぞれ、いろいろあっていいよね。

よく言われる言葉だ。その根底にあるものを問い直すきっかけになったのが、ゴールフリーの話だった。

・(100点を取るために)人それぞれ、いろんなやり方あっていいよね。
・(一人ひとりが何を、どこまでやりたいかは)人それぞれ、いろいろあっていいよね。

この2つは全く異なる意味になる。
南アルプス子どもの村では、後者だ。
自分で、何を、どこまでやりたいかを決める。料理が好きな子は、毎年料理のプロジェクト(授業の多くがプロジェクト選択式で、こどもたちが興味のあるものを選ぶ。)ばかり選択する。
だから、運動は全然やらないんだ。という子もいる。

前者の考え方に立てば、前回料理のプロジェクトをやったから、次はニガテな体育も70点までは挑戦してみましょう。となる。

こどもは(というか私たち人間は)、元々持っている好奇心を開放することで、探求が進む。
一人ひとりに異なるゴールがあることが前提となる関わりが学園のスタイルだ。

もう1つ面白いのが、給食の時間。
子どもたちは、カウンターに並んだ食事から、自分の食べたいものを食べたい量とって食べるという。

そう聞くと「栄養が偏るんじゃないか」「嫌いなことに立ち向かわなくなるんじゃないか」と怪訝に思う大人もいるだろう。ぼくもひとつの側面としてそう思う。

しかし、かとちゃんは言う。
「食べたくないものを食べさせられるって、尊厳を侵害されてるじゃないですか。」
大人になったら自分で選んで食べるのに、こどもの時期は大人から食べさせられるって、おかしな話に思えてくる。

かとちゃんは続けて言う。
「こどもたちは、最初は食べなくても、ほかの子たちが食べてるのを見ていると、気になってちょっとたべてみようかな、って気になったりするんですよ」

そんなことあるかな。って疑いたくなるのだが、実際に起きていることだ。
その背景には、おとながしっかりと待ってくれることがあるのだろう。

かとちゃんは、待つことって大忙しなんですよ。頭の中がね。という。
こうしたほうがいいんじゃないか、ああしたら大変なことになるんじゃないか、いろんな想像をすると、頭の中は大忙し。

けれど、じっと待って、こどもを見守る。
南アルプスのおとな、保護者たちからはなみなみならぬ胆力を感じる。

子どもたちで自力で作った池。賛否両論あったので、ミーティングが繰り広げられたとか。

大切なことを大切にして生きる

南アルプス子どもの村では、一人ひとりが人間として生きることの尊厳を守られ。忖度や損得が第一になく、本当に大切にしたいことを大切にして生きている様子がいくつも垣間見えた。

生きるとは、将来のために今を犠牲にすることじゃない。
今、この瞬間を自分として生きることだ。

ぼくが、フィールドワークで感じたことを多くの方と分かち合えたら、それはとても喜ばしい。

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