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【3投稿目】理解のある彼くん、発達障害について語る。

おはようございます、こんにちは、こんばんは。
だいちです。

3月27日(月)18:00〜22:00「理解のある彼くん/彼女さんバー」をエデン難波さんにて開催させていただけることとなりました。

【1投稿目】にバーのコンセプトやこうした投稿の意味を書いています。

私だいちについては、【2投稿目】に詳しいです。この投稿を読んでもらう前にみていただければ、私のヘンコさが伝わっていいかと思います。

さて、今回はタイトルのとおり「発達障害」そのものについてのお話。といっても、研究者でも当事者でもないので、学術的・現実的なお話というわけではなく、あくまで側にいる支援者「彼くん」としてお話をしようかと思います。

そもそも「発達障害」とは?

僕は「自分の世界観と他者の世界観に折り合いがつけにくいこと」と考えています。

ん? どういうこと?

順を追って、お話しますね。

「発達障害」の定義について、wikipediaから引用をしておきます。

発達障害(はったつしょうがい、英: Developmental disability、DD)は、身体や、学習、言語、行動の何れかにおいて不全を抱えた状態であり、その状態はヒトの発達期から現れる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BA%E9%81%94%E9%9A%9C%E5%AE%B3 より引用

行政上でいえば、「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥・多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するもの」というふうに定義されているようです。(引用元同上)

なんだか煙にまかれたような気持ちになりますね。

とはいえ、「脳機能の障害」ということはとても大事なことです(専門家ではないので、詳しくはお話できませんが)。「発達障害」を語る際に、よく「本人の怠けか否か論」が出てきますが、それは断じて誤りである、と僕は考えています。その理由がこれです。発達障害は「脳機能の障害」であるので、本人の努力によって変えられる部分とそうでない部分があります。ソフトに問題があるのではなく、ハードに問題があるということです。

とはいえ、「問題」や「障害」と言ってしまうのは語弊がありますね。wikipediaの記載にもあるように「不全」と言ったほうが幾分良いかもしれません。

実のところ、僕は 「発達障害」という言い方もあまり好きではありません。それは「障害」という文字に嫌悪感があるといった言葉狩りのような話ではなく、「障害」という言葉では実態を捉えきれていないと思うからです。実際に、発達障害ではなく「発達特性」や「発達(の)凸凹」の呼び方でより正しく?(真っ直ぐ)に実態を捉えようとする流れもあります。

呼び方については、僕には正解はわかりません。

しかし、当事者の皆さんが抱えている「生きづらさ」は決して自責的なものではなく、また「問題」や「障害」でもない、ということをここで明確にしておきたいと思います。

では次に、当事者の皆さんが抱える「しんどさ」の正体はいったいなんなのでしょう。

それは、最初に書いた「自分の世界観と他者の世界観に折り合いがつけにくいこと」でもあると僕は思うのです。

「しんどさ」=「自分の世界観と他者の世界観に折り合いがつけにくいこと」=「発達障害」という等式が成り立つということです。

カノジョを見ていて思うのですが、カノジョは「ひとり」で生活している分にはなんとかやっていけているのです。でも、「ふたり」以上の生活になると時折しんどいのです。

僕はカノジョから、発達障害がある、と告げられたのは出会って2回目のデートのときでした。しかし、この人には発達障害があるな、と気付いたのは、出会った瞬間でした。というのも、僕に貸してくれると約束していた本を忘れた「うえに」メガネが汚れていたからです(さすがに経年の痛みがひどかったので、最近メガネを変えました)。

僕は瞬時に想像するのです。

朝早く集合の初デート。早起きをして、化粧をして、遠くから電車に乗るために逆算して家を出て、どんな会話をしようか、どんなご飯を食べようか、どんな人だろうか、なんてことを考えてきたんんだろうな。
そして、その考えごとには「約束した本」と「メガネの汚れ」は入らない人なんだろうな。

カノジョ「ひとり」の視点にたてば、本を持ってくるのを忘れたわけでもなく、メガネの汚れをほったらかしにしているわけではないのです。それを考えていなかった、だけなのです。

でも、カノジョと僕の「ふたり」の視点で見れば、持ってくるはずだった本がなく忘れた「ように見え」、メガネの汚れも気にしない「ように見える」のです。

その違いは、見る人によれば「失礼」で「そそっかしくて」「だらしない」のかもしれません。

しかし、考えてみれば、カノジョにはカノジョなりのキャパシティがあって(ソフトではなくハードのこと、として)、そのキャパシティなりの世界観で生きているのです。その世界観は、「ひとり」で生きる分には申し分ないのです。

でも、「ふたり」以上で生きるにはしんどさがある。

それだけなのです。

もっと抽象的な話をしましょう。

ADHD傾向のある人は「注意散漫」で「多動」「衝動」性があり、「じっとしていることが苦手」だったり、「突発的に行動」してしまうということがあるということはよく知られています。
でも、それらのかっこ書きの特徴は、他者から観測した際に、注意散漫で多動で衝動的でじっとできずに突発的に行動してしまう「ように見える」だけなのではないでしょうか。

本人からすれば、注意散漫であるとも、じっとしていないとも思っていないのかもしれません。

あちらに綺麗なものがあれば飛びつき、こちらに素敵なものがあれば駆けて行くだけなのではないでしょうか。

そうした世界観に生きていることを分からず、他人の世界観からみれば、かっこ書きの特徴は不適切なものにうつるでしょう。もしかしたら叱られられたり、それが原因でトラブルを起こしたり、と色んなことがあるでしょう。

自分の世界観と他人の世界観との軋轢が叱責やトラブルを生むのだとしたら、そうした軋轢を解消してやれば叱責やトラブルも生まれないのでは?

そうです。そのとおりだと考えます。

さきの話に戻りますが、僕は本も忘れたことについて腹を立てませんでしたし、メガネが汚かろうが知らんこっちゃない。

僕は、僕の世界観でカノジョを理解しようと思わなかったので、そこに軋轢は生まれませんでした。

つまり「自分の世界観と他人の世界観」の折り合いを他人である僕がつけたのです。

「しんどさ」=「自分の世界観と他者の世界観に折り合いがつけにくいこと」=「発達障害」という等式の、「折り合いがつけにくいこと」がなくなったとするならば、そこに「生きづらさ」も「発達障害」もなくなった、ということ?

どうなんでしょうか。
こちらもなんだか煙にまかれたみたいです。

とはいえ、究極的に、「理解ある」ということは、そういうことなのかもしれませんね。

ということで、ひとつ折り合いをつけてもらってどうぞ。

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