No5 自主的な街
講談社の現代ビジネスに掲載されていたタワーマンションについての記事は最後に次のように述べている。
この記事を見てふと思い出した街がある。
選択には責任を持たねばならない。自分の育った地域におい社会と学校ではそう教える。そしてもちろん大人になって仕事やその他の責任あるなにかに従事するようになるとその第一歩でそう叩き込まれる。選択は責任を持ちなさい。
選択は責任を持ちなさいというのは時間軸的に二つの意味があるのではないかと思っている。一つは選択の前段階。選択を実施するときまでに、その選択についてよくよく検討して最善の選択ができるようにしなさいということだ。もう一つは選択を実施後には選択の実現に努力を惜しまないこと、ということだ。
レストランでなにか注文するときは、注文する前にそれでよいのかどうか検討しなさいということだ。一度注文が通ったらあとは不味くても、想像と違っても食べなさいということだ。そして不味いものを覚えて次を回避することと、どう不味いのかを知り次に活かしなさいということだ。
私はこういう考えが一般的なものだとばかり思っていた。しかしそこは多様な日本。こうではない地域があった。冒頭の記事の表現を借りるとこうなる。
つまり、飲食店で注文して出された物を食べて不味かったならばそれは作った人が悪い。というわけにはならないのがこの地域の特徴だ。
この地域の人はこう考える。
この食べ物はマズい
作っている人がマズイ物しか作れないのだろう
何故不味い物しか作れないのかというと、神棚が無いから
ご先祖様を敬わないような人はいい人であるわけがない。
いい人ではないのでいい物が作れないのは当然だ。
従ってこの人は本質的に悪い人だ。
だから私はこの人の被害者だ。
論理の飛躍がすごいのがお分かりいただけるだろうか。食べ物がマズイからその人の全人格を全否定されてそれを原因にされてしまう。ちなみにこの後の展開は、よくあるように「ご先祖様を敬わないような悪い人」は「人を敬わないような悪い人」になり「粗野な人」になり「店に行ったら追い返された」といった類の評判が流れる。悪評となったら飲食店は致命的。
そして、当の言い始めた本人は、その飲食店が閉店や移転するのを聞いて「ほらやっぱり自分の評価は正しかったのだ」と確信を持つ。万事がこの調子で繰り広げられる。
ちなみに言うまでもないけれど、この飲食店は地域外からやってきた人だ。悪い評価には「あんな地域の出身の人」という自分達以外の出身という要素ももちろん存在する。