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映画「ディア•エヴァン•ハンセン」を観て、ばななさんの本に励まされたこと 追記あり

映画「ディア•エヴァン•ハンセン」を観てきました。
春馬くんが2016年にニューヨークのブロードウェイで観てきたミュージカルの映画版。

感動して もし機会があったら
キンキーブーツと同じように演じてみたいと言っていたミュージカル。ミュージカルでも主役をしていた、ベン•プラットが映画版でもエヴァン役で出ている。

春馬くんが観て、聴いたベン•プラット本人の
演技や歌声を実際に自分で観て聴ける。

これだけで嬉しくて
なにも知らずに観に行きました。

音楽も演技もストーリーも本当に素晴らしかった。どの役者さんも魅力的だった。      けれど、このミュージカルのテーマに驚いてしまった。

春馬くんはどう感じて、どう自分でやってみたいと思ったんだろう?

わたしにはエヴァンもアラナもそしてコナーさえも春馬くんに見えた。

春馬くんがいま この世界にいないことが
あらためてつらかった。           映画を見ている間中、ずっと春馬くんのことを考え続けてしまった。             見ていない方も多いと思いますので、映画のお話はここまでに。

あの日からの自分のこと

ここで突然だけど、あの日からの自分のことを 今さらながら振り返ってみたい。

あの日の朝
コンフィデンスマンjpのロマンス編が
TVで放映される朝

春馬くんのことを思いだしていた。
春馬くんは昔から大好きだけど
ずっと人気者だったから
天邪鬼なわたしは、人気者は積極的に追わないところがあってすごく順調そうだし、時折り見る春馬くんがいつも輝いていたから、わたしが言うのも変だけど安心して遠くから見ていた。

だからその朝、春馬くんのことを考えていたのは不思議だった。

そしてレッスンがあったのでいつもどうり出かけた。

知ったのは午後のヤフーニュース。

友人が言った言葉の意味がわからずに

なんで春馬くんなんだろう?

と最初に言った気がする。

それから今に至るまでずっと同じことを考え続けてきた。

最初の三ヶ月は呆然としていてなにが起きたのか理解が出来なくて悲しいのに涙も出なかった。

そして三ヶ月過ぎて猛然と悲しみが襲ってきて そこからは怒涛の涙で

12月の「天外者」を見たあと、座席から立ち上がれなかった。そして発熱して寝込んでしまった。

自分ではいろんなことで寝込んでいるんだなと わかっていたけど、こんなご時世だったから  出勤停止になってしまった。

快方してからは「太陽の子」が終わるまでコロナ禍もなんのその、映画館にずっと通っていた。

今にして思うこと

追っかけるのが、遅すぎる。

どんなに後悔しても春馬くんの舞台はもう見れない。

それから同じことを考え続けている

生きることと死ぬこと。

どう死ぬかってどう生きるかと繋がっているようにわたしは思ってて

春馬くんもそんなところがあったのかな。

ずっと生死をテーマにした作品に出続けていた。
そして今回の「ディア•エヴァン•ハンセン」も やっぱりそのテーマの映画だった。

彼がずっと死にたかったのだと、それはどうしても思えない。
彼は死を見つめながらも、ずっとどう強く生きていたいか考えていたと思う。

あれから自分でも春馬くんのことを忘れられなくて、彼のことを考え続けているのがなんでなのだか、自分でもよくわからないけれど

会えないのがつらくて悲しくて忘れられないのなら、それはもう、そのまま受け入れようと思った。

よしもとばななさんの本から

そんなふうに思いだした時に作家のよしもとばななさんの「人生って?」という読者さん向けへの
質問回答を一冊の本にまとめたものに出会った。

よしもとさんは死をテーマにした数々の作品を、世に送り出している作家さんなので、わたしは彼女の感性が好きで時々読んでいる。

この一年と半年、時折り心のバランスが崩れて
それはわたしの側にいるひとに心配をかける  レベルではなかったとは思うけれど心療内科に行きたい時もあって、結局行けなかったけれど
もし行っていたら、カウンセラーにかけてもらいたかった言葉を、ばななさんが本の「人生って?」の中で答えてくださっていたので、
ここに引用させていただきたいと思う。
わたしが時折り思い出すように。

かなりわたしが理解しやすいよう要約しているので違っていたら申し訳ないです。
興味がある方は原文を読んでみてください。
わたしの要約はこう。

『自殺をする人は、
ごめん 頼むよ もう疲れたよ。
そういう気持ち。それを受け止めてあげないと仕方がない。

本当の気持ちは本人にしかわからないとしても、
頭がどうしても自殺のことしか考えられなくなっていて実行すれば、そのことばかり考えてしまう
つらい毎日から楽になれる。そう考えてしまう
そういう病。

本人の本当の意思とは深いところでは関係ない。

もちろんきっかけはあるとは思う。
きっかけの蓄積もあると思う。
環境もあるだろうし、遺伝もあるかもしれない。

けれど最後はその人自身の決断。
実は脳内物質の偏りの問題。
偏った状態であっても実行に移せば結果は現実。
いのちはひとつだから、そこで人生が終わる。

逝ってしまうひとには、
流れを変えて欲しいと願っても届かないことが多い。
死にたいという厳しい波の激しい繰り返しに、
疲れ果てている場合が多い。
やり過ごしてまた収まっても、どうせ また こんなに苦しくなると思っている。

だから伝えたいのはその人のことを考え詰めて 苦しんでいるあなた自身のことをわかってあげられるのは、あなたしか(自分しか)いない。
大事な人を失くした、つらさ 悲しさ 悔しさを亡くなったひとのことより先に自分の心に聞いてあげて。

そうしたら、亡くなった人も救われる。
生きているひとに負担をかけたいと、亡くなるひとはいない。

死後の世界があるのなら、死んでからきっと
誰のせいでもなく、自分が自分をもう持ちきれなかったんだなと気がついているはず。
きっと今は会いたいと思ってくれている
いい状態のその人を思い出してあげて。』  

*幻冬舎刊 よしもとばなな「人生って?」より

少し、救われた。              本人の本当の意思とは深いところでは関係ない。わたしもそう思う。

アタマと心は別のもの。偏ってしまったアタマに心まで支配されてはだめ。          心には本当の本音の気持ちがあると思う。

錯覚だったのかな。いや違うと思う

最初にこのnoteを書いた時にどうしても書けないことがあって。でも、自分のために追記しておきます。これは錯覚と思われたらそれまでなんですが、春馬くんのことを考えながら「ディア•エヴァン•ハンセン」を観ていた時に、ふと隣の席にひかりのような輪郭のようなものが、目に止まった気がして

ふと隣を見ました。当然誰もいません。わたしは基本映画はひとりで行きます。そして大体中央付近に座ります。あの日は残念ながらすごく空いていてわたしの前列にご高齢のご夫婦がおふたり。左手、数列前の端にひとりで見ておられて。

最初は気のせいかな?左手数列前の方が映画の途中でスマホでも開いたのかな。そんな気持ちでした。 

でも映画の途中でも左隣になにか捉えて    つい左側を見てしまう。でも誰もいない。   こんなことが3回あったのです。

初めて観る映画は、かなり集中して観ています。左手にも、後方にも誰もおられなかった。

でも3回もなにかの気配を感じてしまった。  もちろんわたしは霊感体質ではないし、相当映画は観てきましたがこんなことは初めてでした。

あの日わたしは、誰かと映画を一緒に観たのかもしれません。それが春馬くんだったら、すごく嬉しいですけど。

さて この追記を書いている日は「天外者」の一周年公開記念日、全国と台湾で300館以上の映画館に春馬くんへの愛があふれる日です。春馬くん今日はいろんなところを訪ねて忙しいんだろうな。





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