【短編】祖母のいた町

 六十年前、祖母はこの町に嫁いできた。当時全国を旅していた祖父と出会い、そのまま結婚を決めここへ移って来たのだという。以来、祖母は郷里に帰ることなくこの町に暮らしている。既に縁談が決まっていたにも関わらず、突如現れた旅の男のもとへ行った祖母には帰る家などなかったのだ。しかしそれでも祖母は、祖父との慎ましい日々を幸せそうに暮らしていた。


  ある日祖父が死んだ。脳溢血だった。友人と将棋を指していたら急に倒れたらしい。そのまま意識が戻ることは無く、あまりにもあっけなく祖父は逝った。祖母は泣くこともなく、淡々と「あの人はいつも突然だね。」と言うだけだった。祖父が死んでからというもの、祖母はぼんやりと過ごすことが多くなった。庭先の花壇は荒れ、趣味の編み物も止めてしまった。祖母の中の時間が進むのを拒んでいるようだった。


 そんなある日祖母がぽつりと言った。「あの町は今どうなっているのかねえ。」
 それは六十年前に捨てた故郷の町のことだった。祖母は遠い北の町に生まれた。今も冬の空気の澄んだ朝には北の空の果てに青白い山脈が浮かび上がる。祖母のいた町はその向こう側にあるという。 「町の中心に大きな城跡があってな、立派な石垣と大きな木々に囲まれた風情のある場所だったよ。私はそこが好きだった。」祖母は目を細め誰に言うとでもなく呟いた。それからはぽつぽつと故郷の話をするようになった。


 「毎年夏になるとな、夏祭りが行われてな、それは賑わったもんだ。大きな大きな神輿を百人がかりで持ち上げるんだ。そうするとな、町のいろんなとこから蛍みたいな小さい光が出てきて、神輿の周りを飛び交うんだ。あんな光景はなかなか見れないよ。」ある初夏の日の暮方、夕日を眺めていた祖母はそう語っていた。


  秋になると祖母は体調を崩すようになった。「あの町にはね、大イチョウ様と呼ばれる大きいイチョウの木があった。もう何百年も昔からある木でね。神様が宿っていると言われていたんだ。」病床にあっても祖母は故郷の話を続けていた。「その木には古い言い伝えがあったんだ。秋の終わりの月の無い晩に、葉が散りかけてるイチョウのもとへ行くと、イチョウが人の悩みを聞いて今後の身の振り方を教えてくれるらしいってね。私がおじいさんに会って少ししたときだよ。あの人についていきたいと思った。だからイチョウに相談したんだ。あの人について行って幸せになれますか、ってな。そしたら目の前にイチョウの葉っぱが一枚落ちてきてね、そこに”なる”って書いてあったのさ。だから私はおじいさんについていくことに決めた。さてイチョウは正しかったのかねぇ。」


  冬になると祖母は寝たきりになった。瞳の奥が異様に澄んでいき自分がもう長くないということも察しているらしかった。それでも時々祖母は故郷の町の話をした。「本当に雪の多い町だった。私ら子供は学校も休んで雪かきの手伝いばかりをしていたよ。そんでな、あの町には雪の降る夜に子供は外に出てはいけない、っていう決まりがあったんだ。まあ子供を心配する親心から生まれた決まりだと思うんだが、ガキの私はついつい外へ出てしまったんだ。そうするとな、道の向こうからじゃらん、じゃらん、ってたっくさんの鈴の音が聞こえてくるんだ。そんでだんだんその音が近づいてくる。私は無性に怖くなって家の中に逃げ込んだよ。それから雪の降る晩はとにかく家の中で大人しくしていたが、かすかに外から鈴の音が聞こえてくるようになってね。そりゃあ嫌な気分だった。」故郷の話をしている時の祖母はまるで少女のような清らかで穏やかな表情を浮かべていた。


 春になり、桜の花が風に散る中祖母は息を引き取った。「あの町ではな、まだまだ冬が続くと思っていたのに、ある日雪の中に桜の花びらが交じる日が必ずくるんだ。まだ桜なんてどこにも咲いてないのにちょっとだけ桃色がかった白い花びらが雪の上に落ちている。そうすると一気に暖かくなって春が来るんだよ。だから春が近づく季節になると、みんなして春はまだかーって言って雪の上を花びら探して歩いていたよ。」亡くなる前日祖母は故郷を思い、懐かしそうに言っていた。 

  
  日に日に暖かくなり、北の空に見えていた山脈の輪郭はだんだんと薄れかかっていった。

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