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子供時代の自分と元教師の教え

Dahliaの人生を読んでくださった方は、私が如何に教師たちに翻弄されていたことが分かるだろう。

彼らが私にしていたことは、個性を潰すことだ。

皆と同じように行動する
皆と同じような作品を作る

出会う人で、教師です!とか教師を目指しています!
という人に嫌悪感を感じていた。

私は他の生徒と同じことをするのが嫌いだった。
だから、夏休みの自由研究も、他の子達とは違うものを出した。

例えば、

市販の〇〇温泉の入浴剤と呼ばれるものは、本当に〇〇温泉を再現しているのか
海の中に住む方法
などなど

けれど、それは
自由研究という名の不自由研究により、先生方から賞賛されることはなかった。
海の中に住む方法は、どうせ無理な事だと突き放されてしまった。

それから、私は
宿題が大っ嫌いだった。

なぜなら、なんで授業で学んで理解して解けることを再度丁寧に自分自身で解き直さないといけないのか。時間の無駄じゃないか。
そういう思いでいっぱいだった。だから、宿題はやらずに自分の好きなことをやっていた。

それよりも、
解けない部分を再度考えなおす。
ということが宿題で必要なのでは?とクラスの授業でついていけていない子を見て思った。

私は小学生の頃、音楽鑑賞の授業が大好きだった。
音楽を聴いていると、ピアノの音、オーケストラの奏でる音から、
その曲の世界へ浸ることができた。

特に、スメタナの「我が祖国」の「モルダウ」は小学生の私のハートを掴んだ。
モルダウ川の小川の儚さ、水が流れ着く先の大河の壮大さ
あーチェコってこんなに美しい国なんだ…
メロディから感じとることができた。

図画工作の授業も大好きだった。
版画に挑戦しようという授業で
オーストラリアのアボリジニの版画を、図鑑に載っている深海魚で再現した。

けれど、これらを評価してくれるのは音楽と図画工作の先生2人だけだった。

私たちなら、Dahliaさんの魅力がわかるのに!なんで〇〇先生は分からないんだろう!
こう2人の先生は仰ってくれた。

作文を書くときは
表現力を駆使して書いた。

内容の例は
発想の転換が出来ない人間の末路を文豪で例えたり、
こころを書いている夏目漱石の考察

読書感想文にて
ある政治の本を読んで、
けちょんけちょんにその政治は間違ってる
と書いて、自分の求める政治とはを書いたら

もっとちゃんと本を読みましょう

それだけ書いてあった。
あなたはこの本を読んでそういう発言をしているのか??
大変憤りを感じた中学生だった。

代わりに評価されるのは
簡単な表現で、分かりやすく伝えてあり、皆が共感されやすい文章だった。
(そういう文章が一番読まれることは否めない)

私は大人たちから理解されることない学生時代を過ごしていた。

ある日、見知らぬミシルさんが出ているYouTubeでミシルさんの考える教育や
スタエフライブでのコメントを聴いて、
教師への目線が変わった。

成功体験を与えること
授業始まるまでに戻ってこない子がちゃんと戻ってきたら褒めることなどなど。
怒ることと褒めることの上手く使うこと。


子供たちに考えさせることが大切だということ
なんで勉強することが大切なのか考えさせること、
なんで学校に来ることが大切なのか
学校というのは共同的問題解決力を養うのが大切だ
共同的問題解決は物事をみんなで解決していくこと
これからの学校教育に必要なのは、
生徒に自分が学習したいことなど、自己決定させることが大切だと
ミシルさんは唱えてた。

勉強することの大切さや、学校に通うことの大切さを学べたら、私は学校で過ごしやすかっだと思う。


もしかしたら
個性的な自分の意思のある教師というのは、
個性的だからという理由で、日本の教育から外されていくのかもしれない。

日本の教育が変わらなければ、
いつまでも
当たり前以外を理解できない人達が増える
外国人を見て別世界の人間だと言う(グローバル人材が育たない)

なにか、教育革命が起こり、この同じ色の日本が変わればいいのに。喜んで私も参加する。

私は小学生の頃から、日の丸には特別な想いがあった。
それは
周りの白に混ざらない孤高の赤

結局教育現場は白一色だ。

私みたいな個性的な人達が
癖強い人間
と一括りされない
癖強い
という概念が無くなる世の中になればいいのに

そんなふうに強く願う。

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