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中平穂積さんのこと

中平穂積さんがおしえてくれたこと。

 中平穂積さんの写真集『モダン・ジャズ・ジャイアンツ』は、19歳の時に買ってからずっと、いつでも手の届くところに置いてある。結婚しても、引っ越しても、しまいこまずに何十年も手元にある本はこの写真集だけだと思う。すごいことではないですか? この本を買った頃は、背伸びしてそれなりにいろんなジャズの本やら洋書の写真集を買っていたけれど。この本だけは、手にした瞬間から何か特別だった。写真そのものに魅了されるとともに、写真集に登場する知らないミュージシャンたちを片っ端から聴いた。教科書みたいな本でもある。ローランド・カークも、アンソニー・ブラクストンも、この写真集で知った。ここに載っている野口久光氏や和田誠氏や油井正一氏のエッセイも、暗記するほど読んだ。あと、ずっと後になって知ったことだけど、アート・ディレクションを手がけているのは矢吹申彦さんだった。

 ハタチのときに初めてDIGというかDUGというか実際はNewDUGだったけど、とにかく新宿のお店に行った日に、この写真集にサインをもらった。「日大なの?後輩だね」と言われて、本当は中平さんと同じ芸術学部に行きたかった私はすごくうれしかったのを覚えている。今、サインの日付を見てびっくりしたけど、もう40年も前なのか。このときは中平さんと親しかった方が連れて行ってくれて、ご本人に紹介してくれた。中平さんはNew DUGの最上階ですでにいい塩梅で酔っていらして、私たちに一杯ずつごちそうしてくれた。

 70年代前半、素晴らしいジャズ・フォトグラファーとして高く評価されていたにも関わらず、あるとき中平さんはジャズマンたちの写真を撮ることをきっぱりやめてしまう。その理由については、この写真集の中でご本人が「ミュージシャンを知れば知るほど、親しければ親しいほどカメラを向けにくいものだ」と書いているけれど。本当に、文字どおりそういうことだったらしい。ニューヨークのクラブにソニー・ロリンズとディジー・ガレスピーのライヴを見に行ったら、客席にマイルス・デイヴィスがいて、終演後には楽屋で3人がわいわいしている歴史的瞬間まで至近距離で目撃したにもかかわらず、どうしてもシャッターが押せなかったこともあるとか。
 音楽ファンであるがゆえに、シャッターが押せなくなってしまう…なんて。そんなことを言ったカメラマンを私は他に知らない。いわゆる“諦めた”でも“挫折した”でもなく、ジャズを愛するがゆえにやめてしまったのだ。そんなことってあるだろうか。40年前にお会いした時も「写真撮ってると、音楽が聴けなくなっちゃうからやめたんだよ」と冗談ぽく話してくださった。その当時、いろんな人が撮ったジャズ写真展みたいなのがあって、予告に中平さんのお名前もあったことを話したら「もう、未発表写真もほとんどないんだけどね」と、昔撮った写真を出展することを教えていただいた。もちろん、それも見に行った。

 私は、リアルタイムでは中平さんの写真を知らない。ずっと後になって、また作品を発表される機会があり、『モダン・ジャズ・ジャイアンツ』収録作品とあわせた新版の豪華な写真集も発売され、それはそれで感慨深いものではあったけれど。やはり、いちど写真を撮ることから離れた後と前とでは世界の色がまったく違う。個人的な思い入れもあるのだとは思うけれど、やっぱり、1961年から約10年という短い間に撮影された写真の1点1点が本当に大好きだ。どれを見てもまさに「撮るのをやめてしまった」中平さんのまなざしを感じる。眺めているだけで、この人がこんなふうに見つめているミュージシャンの音を聴いてみたいと思わせる。

 ジャズが好きすぎて写真を撮り始めて、それなのに好きになればなるほどシャッターを押すことができなくなったという中平さんの美学というか、たたずまいというか、価値観としての“距離感”に、私はものすごく影響を受けた。好きな音楽に近づけば近づくほど“聴こえなくなる”。そんな狂おしい矛盾をはらんだ距離感というのは、音楽に限らず、写真に限らず、私の人生のあらゆることのモノサシになっているようにすら思う。今では年に一度くらいしか開かないけれどずっと手元に『モダン・ジャズ・ジャイアンツ』を置いているのは、たぶん、いろんなものの尺だの距離だのがわからなくなった時にも、そこに自分のモノサシがあるという安心感なんだと思う。

 中平穂積さんは12月1日にご逝去された。享年88。私などが追悼なぞ書くのもおこがましいけれど、せめて、今まで誰にも話したことがない“距離感”のことを書き留めておこうと思った。誰かに伝わるか伝わらないか、わからないけれど。自分にとって、とても大切なモノサシについて。「音楽を愛する」という純粋な思いもまた、突き詰めればひとつの「表現」になる。評論でも批評でもなく、(陳腐な言い方でけど、こうとしか言いようがないから書くけど)「愛」という表現もある。そのことを『モダン・ジャズ・ジャイアンツ』が教えてくれた。
 この写真集の最後のページは、棺におさめられたサッチモのなきがら。ニューオーリンズでの葬儀での写真だ。中平さんが撮影したジャズマンたちはもう、ほとんどが亡くなってしまったけれど。今ごろきっとたくさんの仲間と再会されて、天国はジャズクラブ状態に違いない。ご冥福をお祈りします。

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