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第六章の52◎武士の情けと国際法

 日本人は、たとえ戦争の最中であっても相手の兵士を思い遣り、武士の情けを掛ける民族なのです。
そして、戦争中だからこそフェアーに戦い国際法を守る民族でもあるのです。
 これらは、海外の人々には全く理解が出来ない事と思われますが、日本人は、基本的に捕虜を殺さない平和主義の民族だという事にちゃんと気が付いて欲しいのです。
 歴史上では、織田信長のように比叡山を焼き皆殺しにした残忍な武将も例外的にはいましたが、豊臣秀吉も徳川家康も負けた側の兵士たちを無暗に殺したりはしませんでした。豊臣秀吉の朝鮮半島侵略も、目的地は明であり、朝鮮王の対応の不味さや、キリシタン大名の小西行長が嘘の情報を報告しなければ、残忍な仕打ちをすることは無かったのです。
 源平の戦いでも、源頼朝は伊豆に流されただけで斬首されることはありませんでした。
中国のように、秦の始皇帝の焚書坑儒での生き埋め皆殺し、毛沢東の反乱分子皆殺しのような残酷な世界は、日本には無かったのです。
なぜなら、もしそのような危機が起こりそうになれば、日本人全体が正義感で皆殺しを防ぎに行くからなのです。
 日本人の基本的な思想は、勝ちと負けのゼロサムゲームでは無く、共存共栄、つまり横並びの感覚なのです。
欧米の様に、勝者が敗者を支配する封建主義的な主従の縦関係とは異なる世界なのです。
そして、日本のトップに立てるのは天皇陛下のみであり、天皇陛下は国民を代表して神事を務められ、国民を守って下さる立場だからなのです。
 そんな日本人を、世界中の人々はもっと正しく理解し、信用しても良いと思うのですが、どうも西洋的な価値観で服従させることが先に来る為なのか、日本人への恐ろしさの方が先行してしまうようなのです。
 豊臣秀吉の朝鮮征伐の際には、優れた陶芸家を連れ帰り大切に日本人として大事に扱っています。日本はそんな国である筈なのに、一方では憲法を真っ先に厳守すべき国会議員が、一票の格差問題で憲法違反をしている国でもあるので、これは何とも嘆かわしい事実なのです。
 ところで、契約書より信頼関係を大事にする日本人なのですが、信頼関係を守るという事は、契約書は言うに及ばず、当然守るということを意味するのです。
戦争においても、日本人は人間としての信頼関係を絶対的な拠り所として来たのです。
ですから、戦争下においても敵国の軍人を、兵士である前に「ひとりの人間」として捉え、思い遣りをもって接して来たのです。
 そのような考えのもとに戦争を行っているので、日本は当然のごとく国際法を真摯に順守してきたのです。
その中で唯一の例外が、伝達ミスによる真珠湾攻撃における『宣戦布告通知の未達』でした。これについては、日本人としては、「あってはならない痛恨の汚点」として過ちを素直に認めなければ状況となってしまいました。
以下は、戦時中にもかかわらず、日本人が国際法を守りつつ、敵国人に対して行った「武士の情け」の一例です。
海外ではこのような話を、映画「戦場のメリークリスマス」以外にはあまり聞いたことがありません。
武士の情けとは、「名誉を重んじ規律に厳格な武士がみせる哀れみや思いやりの情」を意味します。
松江豊寿陸軍少将は、第9代若松市長でもありました。
第一次世界大戦中に板東俘虜収容所所長を務め、在任中にドイツ人俘虜に対して、思い遣りを持って人道的に扱い、地元の住民とドイツ人俘虜を交流させたのです。
この時、ドイツ人俘虜によって日本で初めてベートーベンの交響曲第9番が演奏されることとなりました。
この出来事は、映画『バルトの楽園』の主人公としても知られています。
 戦時下においては、陸海軍とも国際法を遵守し、ドイツ軍捕虜を丁重に扱いました。
青島で捕獲した捕虜約4,700名は、徳島県板東など12か所の収容所に送られましたが、特に板東俘虜収容所での扱いとしては、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、ドイツ料理、バームクーヘンやビールをはじめ、サッカーなど数多くのドイツ文化が日本人に伝えられたのです。
これを皆で歌うのが、今では年末の恒例行事となったベートーベン「交響曲第九番」なのです。
ベートーベンの「交響曲第九番」は、このときドイツ人捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた事が年末の恒例行事の始まりだったのです。
 しかしながら、日本人もドイツ人にもこの事実があまりにも知られておらず、日本人とドイツ人との交流がそれほど深まらなかった事がなんとも残念な事なのです。
一方、工藤俊作海軍中佐は1942年3月、駆逐艦「雷」艦長時、スラバヤ沖海戦で撃沈された敵国のイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を実行した人物として有名になりました。
ノルマントン号事件の非人道的な扱いは、教科書でも出て来ますが、こんな素晴らしい話をほとんどの日本人やイギリス人に知らされていない事は残念な事なのです。
「雷」に救助された「エンカウンター」砲術士官であった元海軍中尉サム・フォール氏は、戦後は外交官として活躍しましたが、恩人の工藤氏の消息を探し続けていました。
彼が、工藤氏の消息を探し当てた時には既に他界していましたが、せめて工藤氏の墓参と遺族へ感謝を伝えようと2003年に来日しました。しかし、それらを実現できなかったため、惠隆之介氏に依頼した結果、2004年12月に墓所等の所在が判明しました。
そのことは、フォール氏へ報告され、翌年1月に惠氏は墓参等を代理して行いました。
その後、2008年12月7日、フォール氏は66年の時間を経て、駐日イギリス大使館附海軍武官付き添いのもと、埼玉県川口市内の工藤の墓前に念願の墓参りを遂げ、
ついに感謝の思いを伝える事が出来たのです。
一方で、根本博陸軍中将は、終戦時にはモンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお侵攻を止めないソ連軍の攻撃から、
蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在する邦人4万人をも救った大変勇気ある軍人です。
復員後の1949年、中華民国台湾へ渡り、金門島における戦いを指揮して、中共政府の中国人民解放軍を撃破。台湾を守る為に、単身日本からわざわざ戦闘に参加したのでした。
これにより中共政府は、台湾奪取による統一を断念せざるを得なくなり、今日に至る台湾の存立が決定的になったのでした。
また海外では、「日本のシンドラー」と呼ばれている杉原千畝氏が、ユダヤ人を救った外交官として有名ですが、「日本のシンドラー」は杉原千畝氏以外にも存在していたのです。
第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原氏は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。
外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られています。
一方で、樋口季一郎陸軍中将は、歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団師団長等を歴任し、最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。
安江仙弘陸軍大佐も伴に満州でロシアから逃げて来るユダヤ人を救済したのでした。
樋口氏は、ユダヤ人を助けるに当たり、「小官は小官のとった行為を、けっして間違ったものでないと信じるものです。満州国は日本の属国でもないし、いわんやドイツの属国でもない筈である。法治国家として、当然とるべきことをしたにすぎない。たとえドイツが日本の盟邦であり、ユダヤ民族抹殺がドイツの国策であっても、人道に反するドイツの処置に屈するわけにはいかない。」と語り、「八紘一宇の精神があるから軍も外務省もユダヤ人を助けた」とする見解を示しました。
さらに、この時の満州での最高責任者が元首相の東條英機元首相であり、A級戦犯として悪名高い東條元首相こそが、最終的に「武士の情け」の判断を下していたのでした。
ちなみに、靖国問題で取り上げられる東条英機元首相他、東京裁判でA級戦犯となった七名は、愛知県西尾市東幡豆町の三ヶ根山にある「殉国七士廟」で祭られているのです。
ですから靖国神社問題は、的が外れた朝日新聞のデッチ上げの問題と言えるのです。
そこには、靖国神社の本当の目的が隠されているのです。ですから靖国問題からは、政治的悪意しか感じられないのです。
東条英機元首相は、東京裁判で「コミンテルンが黒幕」で有る事を正直に暴露したのですが、聞き入れられることなくA級戦犯として処刑されてしまったのです。
そしてマッカーサー元元帥も東京裁判が間違いであった事を認めていたのでした。
一方、乃木希典元陸軍大将は日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や明治天皇没後の殉死で国際的にも著名であり、賛否両論の激しい人物です。日露戦争で、旅順要塞を陥落させた後の明治38年(1905年)1月5日、当時の乃木大将は要塞司令官ステッセリ将軍と会見しました。この会見は、水師営において行われたので、水師営の会見と言われます。
 会見に先立ち、明治天皇は、山縣有朋氏を通じ、乃木大将に対し、ステッセリ将軍が祖国のため力を尽くしたことを讃え、武人としての名誉を確保するよう要請しました。
これを受けて、乃木大将は、ステッセリ将軍に対し、極めて紳士的に接したのでした。
すなわち、通常、降伏する際に帯剣することは許されないにもかかわらず、乃木大将はステッセリ将軍に帯剣を許し、酒を酌み交わして打ち解けたのでした。
 また、乃木大将は従軍記者たちの再三の要求にもかかわらず、会見写真は一枚しか撮影させずに、ステッセリ将軍らロシア軍人の武人としての名誉を重んじたのでした。
 旅順攻囲戦は、日露戦争における最激戦でしたから、乃木大将は日露戦争を代表する将軍と評価され、その武功のみならず、降伏したロシア兵に対する寛大な処置もまた賞賛の対象となり、特に水師営の会見におけるステッセリ将軍の処遇については、世界的に評価されたのです。
乃木大将に対しては、世界各国から書簡が寄せられ、敵国ロシアの『ニーヴァ』誌ですら、乃木大将を英雄的に描いた挿絵を掲載しました。また、子供の名前や発足した会の名称に乃木や乃木大将が占領した旅順(アルツール)の名をもらう例が世界的に頻発しました。
加えて乃木大将に対しては、ドイツ帝国、フランス、チリ、ルーマニアおよびイギリスの各国王室または政府から各種勲章が授与されました。日本から教育や援助を受けた蒋介石氏は、西安事件で中共政府に脅かされた後、日本を裏切り、日中戦争が始まりました。
もしも蒋介石氏が、日本の武士道にある通り「切腹自決」を行っていたなら、日中戦争、日米大戦には至っていなかったのかもしれません。南京大虐殺の話も、蒋介石夫人、宋美齢氏の米国マスメディアを利用したプロパガンダ戦略が発端でした。
ところが、そんな蒋介石氏がカイロ会議で日本分割統治に反対してくれたおかげで、日本は欧米の植民地とはならなかったのです。
また、敗戦後の中国からの日本人の平和的撤退にも協力してくれたのですから、日本人の命の恩人だという事も出来るのですが、結局は日本人の根本博氏が、最後にはその中華民国を助ける結果となったのでした。

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