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「TENET」

 高崎109シネマズにて。平日2時の回、レディースデイにもかかわらず、劇場にはまったくといっていいくらいひとがはいっていない。機会があればその地方の映画館をのぞくようにしているのだけれど、どこもひっそりとしている印象がある。
 時代とともに消えていった地方の上映館も、イオンやtohoシネマズ、今回の109シネマズといった、いわゆるシネコンが、地方都市にマルチスクーンを持つことで、ふたたび映画を劇場で観る機会を得たはずなのに、それほど歓迎されてはいないのかもしれない。
 同じような上映形態で、最新のロードショーが全国どこにいても観ることができる環境があるにもかかわらず、東京などの大都市とくらべたとき、地方での映画に対する温度に少しばかり差があるのかもしれないと感じてしまうのは、ぼくだけなのだろうか。
 人口が、とくに若いひとたちが、大都市へと流れていってしまう。そのことが、地方の活力を減衰させていることに間違いはないだろう。なんとも形容しがたい、あきらめに似た空気が、映画館のロビーにただよっているように思うのだ。
 つい数日前、映画好きの次男が新宿で「TENET」がなかなか取れなくて、22時の回になんとかすべりこんだと話していた。この映画はそれなりの興奮をもって迎えられているのだろう。この興奮が、都市だの地方だのといった「住んでいるところ」とは関係なく、すみずみまで行き渡っているのかに興味がある。

 たしかにコロナのせいで、ぼく自身も、映画館に行くことがめっきり減った。コロナは、感染がどうとかという問題より、映画や音楽や美術といった文化に対する意欲の、いちじるしい減退をもたらしたように思う。
 感染拡大を理由に、熱狂や興奮が禁じられ、息をひそめて蟄居せよと強いられた。そのことで、文化への恋慕や興隆は深まったり、高まったりしたかというと、おそらくそうではなかったのではないか。長い自粛生活のなか、家でたくさんの映画や音楽に接したにもかかわらず、その成果が、こののち一気に溢れ出てくるようには、なぜか思えないのだ。むしろ、文化、芸術といった創造的な営みへの「乾き」よりも「しらけ」がぼくたちのうえに、どんよりと覆いかぶさっているように感じる。
 創造とは、やること、やってみること。そのベクトルはつねに前を向いている。創造のリビドーを激しく規制されると、ひとのなかの大切な部分が削がれ、どこか感情の起伏のない、のっぺりとした顔になる。ぼく自身もそんな顔になってやしないかと心配になる。

 クリストファー・ノーランのすごさは、どこまでも突き抜けていく強い意思にほかならない。のっけからクライマックスが延々と、いつまでも続き、エクスタシーは果てることなく持続する。
 創造のリビドーが、劇場の暗転とともにはじまり、いちども止まることなく、激しく、ものすごい強度で疾走する。観るものは、複雑なストーリー展開、意味不明のことばの解明に頭をフルに使い、なんとしてもこのジェットコースターから落ちまいと必死でしがみつく。同時に目のまえには、視覚と聴覚を最大限に刺激する贅沢きわまりない饗応が展開され、いっときのまばたきさえ許されない。
 まさにエネルギーのかたまりそのものだ。巨大な火の玉がこちらに向かってきているとき、ひとは刮目し、すべての神経を集中して、向かい合うだろう。
 「TENET」という、ひとつのプロットが生まれ、育てられ、それを具体的な映画という創造物に仕立てあげる。そのエネルギーのすごさ、技術の素晴らしさ、ひとの力の偉大さを、あらためて強く感じる。
 ぼくののっぺりした顔にも、すこしばかり生気がもどったように思う。

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