「月」を観た
11月の「死刑囚表現展2023」に先立って、先日そのいくつかの作品を見る機会があった。植松聖さんは5枚の色紙に太くて力強い文字をびっしりと並べ、外に向けてことばを発していた。
死刑が確定した瞬間に、外部とのつながりが遮断される。年に一度の「死刑囚表現展」は、かそけき小さな穴からの声を聴くことができる稀有な場だ。
朱の大きな、自身の手形を背景に、太い字でこう書きはじめる。
死刑反対者は「殺人だ!」といいますが、<人とは何か>を考えなければいけません。
辺見庸の「月」では、重度障害者のきーちゃんと介護士のさとくんの、色も音も匂いもない意識のいちばん深い場所での交信が描かれている。そもそも意識のいちばん深い場所などというものがあるのだろうかという疑念があたまをもたげる。音にも光にも揺さぶりにもいっさい反応しない「人」と、健常な「人」とのコミュニケーションは、果たして可能なのだろうか。
<人とは何か>を考えなければいけません。
と、植松聖さんは言う。植松さんは「心」がないものは「人」ではないと考えた。そしてその信念を実際の行動に移した。
映画「月」を観た。
重度障害者施設の介護士がうつろな利用者にかけることばは、つねに一方的だ。そこに双方向の交流はない。しかし「津久井やまゆり園」の外にでても、健常なるものとして生きている「ひと」たちのコミュニケーションもまた、どこまでも一方向的なのだ。
自分の意見や主張や都合を一方的に垂れ流す。それを聞く「ひと」は黙ってうつむくばかりだ。夫婦は向き合って座らない。アルバイト先の先輩はひたすらに人格否定と罵倒と必要事項を吐き捨てる。家族の視線は一度も合わず、交流を求めた食事会でもそれぞれが勝手に自分の都合と意見を述べ立てる。
「津久井やまゆり園」の外のコミュニケーションも、ぱっと見は双方向のようでありながら、すこしも交差することはない。
さとくんはひとつひとつの部屋をノックしては、挨拶をして、顔を近づけてたずねる。
「心はありますか?」
「月」の2時間半のあいだにたくさんの問いかけがある。そのひとつひとつに丁寧に答えるだけの考えもことばも覚悟も、容易に持ち得ないほどの問いかけがある。そしてその問いかけは、映画からだけでなく、2016年7月26日に大量殺人事件として起こり、裁判の過程においても発せられ、そして2023年のいまも表現作品のなかに見つけることができる。
<人とは何か>を考えなければなりません。
「人」とは何か。「心」がない人は「人」ではないという、サトくん=植松聖の一方的な問いかけに、ぼくたちはきーちゃんのように、なんの反応もしないまま喉をカマで切られるのか、それとも大きくかぶりを振って自分のことばを探しながら「心」について、「人」について声を絞るのだろうか。
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