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「ボストン市庁舎」

 サントリー烏龍茶の撮影で中国の桂林に行ったときのことだから、もうずいぶんまえのことになる。街なかのレストランで、すぐ隣になったテーブルには、特大のお皿に鯉かなにかの大きな魚をグリルしたものがドンとひとつ乗っていた。それを中年の男たちが五人で囲む。いまもって強く印象に残っているのは、彼らがその大きな魚をちびりちびりとつまみながら、とにかくよく喋る様子だ。だれかが中心とかではなく、五人がかわるがわるに、ときに身振りを交えて話す。聞くほうはときに笑ったり、合いの手を入れたりする。そしていいタイミングで魚をつつき口に運んでいる。
 それはさながら極上の会話劇のようであった。もちろん中国語ができないので、話の内容はまったくわからない。でもおもしろかった。ぼくは自分の料理を忘れて、ただただ彼ら五人に見入っていた。
 そのとき、会話というのは、ほんとうに躍動的な力であると感じた。一匹の魚を真ん中に途切れることなく会話が続く。一人ひとりの身体のなかに、外に出たがっていることばが充満しているということだ。これほどの量のことばの束こそは、そのまま生きていこうとする力にほかならないと思った。
そして果たしてぼくは、彼らと同じような生への強い意志やエネルギーを持っているだろうかと自問した。
 まだ兌換元と呼ばれる外国人専用の通貨があり、王府井では人民服を着たひとたちが多かった。しかし五人組の食卓が見せてくれたことばの渦と生へのエネルギーはかしこに溢れていた。このエネルギーがのちにどうなるか、そのときはっきりと自覚したわけではなかったが、こんにちの国際状況をかんがみても、それは十分に得心が行く。

 話すこと、聞くこと、書くこと、読むこと、見ることをあきらめた社会は老いていくばかりだ。そこに発展と進化は起こり得ない。大げさに言えば、黙っていることは、決して美徳なんかではなく、退行しかもたらさない。とめどなく話すことで、ひとは少しずつ前にすすんでいく。
 民主主義とは、一見無駄な労力に映るかもしれない対話の堆積と衝突と妥協と合意によってその土台が支えられている。そこにはうず高く積み上がったことばの大きな山がある。このことばの量と質がどれだけあるかによって、民主主義はすこしだけ前進する。いまのこの国に足りないのは、ことばの量であり、対話の機会であり、生きることへの熱量だと、つねづね思っている。

 昨日は、おにぎりを持って有楽町の大好きな映画館にでかけた。そこでは贔屓の映画作家フレデリック・ワイズマンの新作「ボストン市庁舎」が公開されている。
 ワイズマンの映画は、いつも観るというより、迷い込むという感じだ。今回は、マサチューセッツ州の都市ボストンの市庁舎にはいっていくことになる。そして迷い込んだそこは、これでもかとばかりにことばに満ち溢れていた。
 ウォルシュ市長をはじめ、登場してくるボストン市民たちは、とにかくよく喋り、よく話す。ときにスピーチや講義であったりもするが、それはいつも一方的に発せられるのはなく、つねに対話をする姿勢が前提となっている。
 そこで話される内容はじつにさまざまだ。気候変動や環境問題、移民問題、LGBTQや人種的マイノリティー、ジェンダー、経済的格差や貧困問題について、さまざまなひとが語り対話する。そればかりか、マリファナハウスの営業をめぐる市民公聴会での討論や、退役軍人の会でのスピーチもある。レッドソックスのワールドチャンピオンのパレードも、人種的マイノリティーを理解するための料理教室においても、ひとが発することばがその中心にある。
 カメラはボストンの市庁舎を出て、ウォルシュ市長についていく。行く先々で、彼は自分のことばで、自分の経験と考えに基づいたスピーチと対話をする。ボストンという大都市が抱える問題から目をそらさず、ボストンこそが合衆国の規範たらんとする大きな目標のもとに、力強くことばを発しつづける。

「ボストン市庁舎」で観るのは、民主主義のありようを模索するひとびとの努力であり、民主主義を少しでもまえに進めようとするエネルギーにほかならない。四時間半を越えるこのドキュメンタリー映画は、多様なることばのるつぼである。人権や自由や多様性や民主主義に関心がないひとやそれらへのことばを持たないひとには退屈かもしれない。
 いまやゆるやかに老いていくこの国に住まうなかにあって、その向かう方向に違和感と戸惑いがあるなら、「ボストン市庁舎」は、大きな刺激となることは疑いない。それはあたかも卓上に置かれた大きな魚料理である。ぼくたちはそれをつつきながら、自分のことばを発していかなければならない。


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