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オダギリジョーの眼

原一男監督が厳しく指摘、批判している通り、「月」にはどこか根本的な瑕疵がある。けれどもそこをあげつらうことで「月」を貶めることをしたくないと思わせるのは、ほかでもないオダギリジョーの存在があるからだ。
オダギリジョーをいつまでも観ていたいと思う。いつもそう思う。その理由は、彼の眼にあると、「月」という映画で気がついた。

オダギリジョーの眼にはどこまでも力がない。どこを見ているのか、なにを見ているのかがまったくわからないのだ。だから自然とその目線の先を想像してしまう。そのはかない眼にはいったい何が映っているのか、その向こう側を思うからこそ、物語が豊かになる。

「月」は、オダギリジョーという実存に象徴されるような眼の映画だと思う。二階堂ふみも宮沢りえも磯村勇斗もしっかりとなにかを見ているようで、しかしその焦点はどこか儚くおぼろなのである。若き才人、石井裕也監督はそこにたいへんこだわったのではないかと感じた。

夫婦は隣り合って座り朝食をとる。夫は「たまには」と席をかえ、妻と向きあおうとする。それを妻はかぶりを振って拒絶する。これは冒頭のシーンである。はなからこれは眼と目線に関する映画だと宣言している。

オダギリジョーの眼にはなにが映っているのか。それがわからないからその存在がいつも怖い。なにが起こるかをまったく予期させない。それはいうならばガラス玉のような眼なのだ。彼はこの物語のなかでいったい何を見たのか。

辺見庸は、大きな津波で流され、闇の海を漂うひと組の男女の溺死体の会話を小説にした。死刑執行時、絞首台の抜ける板の地下にどんなことばが浮かんでいるのかを小説にした。そして「月」では植松聖さんによって「心がないひと」と見做されたひとたちのことばを美しく表出してみせた。

それを映像化するとは、はなからたいへんな難題である。石井監督をはじめ、すべてのキャスト、スタッフは、少しずつ目線をはずすこと、そして眼になにかを映さないことで、すなわちガラスの目玉となることで、ことばがない場所のことばを探してみようと試みた。

だからこそこの映画にはオダギリジョーがいなければならなかった。ほかの俳優はオダギリジョーからなにかを盗んだ。見ないこと、映さないこと、はずすこと。
宮沢りえは、どこにでているかわからないくらい、そこには宮沢りえはいなかった。磯村勇斗は圧巻だ。目ぢからの強い二階堂ふみは、微妙にズラすことを自らに課していた。

ちがうかな。いつもの思いすごしなのかもしれない。でもそう感じたからいいや。少なくとも俳優陣の凄さを体験できただけでも「月」を観てよかったと思う。
オダギリジョー、次は「サタデー・フィクション」。楽しみにしています。

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