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スキニーパンツくんとの出会い

君とぼくが初めて出会ったのは、まだぼくが大学を卒業して社会の海に飛び込んだころだったことを記憶している。その出会いは、いくらか衝撃的だった。それは-幾分信じがたいことだけれど-ぼくは君に「全て」を見透かされていたからなのだ。文字通り、「全て」を。ぼくが経験してきたあらゆる喜怒哀楽の根っこを、君は太陽のような光量でもって照らし続けていたからなのだ。君がぼくの喜怒哀楽の中の「怒」と「哀」を注意深く照らし続けていたことも印象深く記憶している。たぶんだけれど、それらを照らしている時の僕がよほど面白おかしく感じられたから、君はずっとぼくの怒りと哀しみを照らし続けていたのだろうと思う。だとしたら、君はとっても意地悪だったのだね。ぼくのこの考えが思い違いであってほしい、と切に願っているのだけれども。初めて出会ったとき、君はぼくにこう言った。
「はじめまして。早速だけど君は、何をそんなに怯えているんだい?なんでそんなに怒っているんだい?唐突に私が出てきて驚かせてしまったことが原因なのかな?そうだったら謝るよ。君に危害を加えるつもりはないんだ。」
君とぼくの出会い方はかなり不意なものであったから、ぼく自身とても驚いてしまったのが原因としてあるだろう。君の指摘通りだ。けれども、ぼくは一瞬たりとも怯えや怒りの素振りをしているつもりはなかった。いつも通りの自然な態度で、きみと対峙していたはずだ。
「怯えてもいないし、怒ってもいない。はじめまして。」
「それならいいんだけど。よろしく。」
君は安心したのか、パンツの裾を犬のしっぽのようにひらひらとなびかせながら、ぼくのことを毎日のように包み込むことになる。君はこの時に、ぼくの《いつも通り》について何かを示していたのかもしれない。ぼくが何気なく過ごしてきたぼく自身の日々の中で、ぼくはあまりにも自然になりすぎているのかもしれないということを。つまり、ベルトコンベアーに乗って流れてくる商品を手に取って詳細に点検する工場員のように、ぼくは毎日ちゃんとぼくであることを詳細に点検し続けているのだ。ぼくがぼくを詳細に点検するという事態は、いったいどうやって成立するものなのだろう。それについては、このような感じなのかもしれない。まずはじめに、ぼくがぼくを点検するところからはじまる。つまり、ぼくはぼく自身を詳細に観察して異常がないかを確認する。ぼくはぼく自身に対して、「異常あり」または「異常なし」のどちらかの判断を下して、次のぼくの点検に取り掛かる。もちろんぼく自身の体は1つしかないものだけれども、それでいて1つ「だけではない」ということも、観察者のぼくは知っている。だから、ぼくはぼく自身の点検が終了したら、「次のぼく」の点検に取り掛かるのだ。ぼくはぼく自身であることを、この一連のサイクルの中で確認する。このように、ぼくがぼくに点検されるおかげで、《いつも通り》のぼくが現実に表れてくるのだろう。そんなぼくの中から、君は《いつも通り》ではないぼくを見つけたということなのだろうか?

こんな風に考えていると、何やら奇妙なひっかかりみたいなものを感じはじめた-つまりはこの一連のサイクルにおいて。まず、ぼくはぼく自身を詳細に点検しながら仕分けをする。そして、次のぼく自身の点検に滞りなく移り、さらに仕分けを進めていく。そうであるなら、「異常あり」と判断されたぼく自身は、いったいどこに行ってしまうのだろうか。あるいは-それはベルトコンベアーに乗って流れてくる商品を詳細に点検して「異常あり」と判断したときと同じように-どこに捨てられてしまったのだろうか。捨てられてしまった商品がどこに行ってどのような処分を受けるのかということを、ぼくは正確な知識として持っていない。それはつまり、捨てられてしまったぼくがどこに行ってどのような処分を受けるのかということを、ぼくは知らないということだ。異常のあるものは商品として不適切なものであるのだから、少なからず廃棄物的な扱いを受けるだろうことは予測できる。つまり、存在しないぼくとして、ぼくは廃棄される。存在するはずだったぼくは、その存在をぼく自身に消されてしまったということなのだろうか?そうかもしれない。けれども、ここでぼくは「そんなことはあってはならない」と心の底から強く思うことになる。何度も何度も、強く思った。ぼくは、このぼく自身の思いに困惑する。困惑すると同時に、その思いの矛盾に打ちのめされることになる。「そんなことはあってはならない」と今のぼくが思うということは、つまり、今のぼくには「異常あり」のぼくがたくさん含まれているということではないだろうか。ぼくは「異常のあるぼくの存在が無残に捨てられることはあってはならない」、と思いながらぼく自身を点検しているのだから、結果的にぼくは「異常あり」であり、「異常なし」の存在であるはずだ。だって、観察するぼく自身が「そんなことはあってはならない」と考えながらぼく自身を点検するのだから、どんなぼく自身であれぼくは受け入れるはずじゃないか?絶対にそのはずであるのだ。ぼくは絶対にそうであると考える。そして、それはありえないことだと考える。

けれども、ぼくの矛盾したこの体は、ぼくを逃がすことは無い。君と出会ったとき、ぼくは《いつも通り》のぼくであると考えて君と対峙していた。もっと正確に言えば、そのようなことも考えず超自然的に君とぼくは出会っていたのだ。ぼくは、《いつも通り》のぼくとして、理想的なぼくとして、「異常なし」のぼくとして、君に向かいあっていたはずだ。そこには、君と、ちゃんとしたぼくの両者が存在しあっていたはずだ。けれども君は、ぼくが怯えてかつ怒っているように思えてならないと発言していたのだ。もちろん、ぼくはそんな素振りを見せたつもりはなかった。だって、そんなぼくは「異常あり」であるから。すでに忘却した存在であるはずだから。正確に言えば、忘却したことすらも忘却した存在であるはずだから。さらに正確に言えば、忘却したことすらも忘却し、その忘却したことすらも忘却した存在であるはずだからだ。つまり君は、ぼくが遠い時間の中で「異常あり」として忘却したぼく自身の存在を-ティッシュペーパーで丁寧につむいで作った釣り糸もどきを使って汚い用水路に居るザリガニを楽しそうに釣り上げる小さい子供のように-器用に掬い上げてくれたということなのだろうか?

そうだとすれば、ぼくはぼく自身に対して、多少の嫌悪と苛立ちを覚えざるを得ない。だって、いまのぼくはぼく自身をあざむき続けてきたということになるからだ。ぼくは《いつも通り》の超自然的なぼくとして存在しているだ、と周囲をだまし続けてきたことになるからだ。

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