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「標題」に覆い隠されたマーラーの交響曲の終わりなき豊かさについて

マーラーはブルックナーと同様、交響曲が異常なまでに長く、よほどのクラシック通でもない限り、敬遠されがちである。とある本には、余りにも長大な交響曲のため「足を組んで」聞き流す程度に耳を傾けて聴くのがよいと書かれていた本があった。マーラーのような作曲家は、チャイコフスキーのような他作曲家とは異なり、数多くの流麗なメロディが、流れる滝のごとく、脳裏に降り注ぐことは少なかったという。とっておきの一節を、最後に大爆発させる巧みな仕組みが、マーラーの交響曲にはある。だからこそ、疲れない程度に足をそろえ、音に集中できる環境を整えて、耳を傾け続けることが大切だ。

そもそも、「足を組んで」(組むような気持ちで)演奏を聴くなど奏者にも作曲者にも大変失礼である。ライブで聴けば、必ずこのような感想を抱くだろうと、確信する。
「自身の内面を、マーラーに見透かされたかのような気持ちになり、体は程よく硬直し、音の洪水に飲み込まれ、音楽と自分の境界線が完全になくなり、水が次第に引くように、いつのまにか演奏が終わっていることであろう。」

マーラーの交響曲の「標題」について

まず、マーラー交響曲に特徴的な「標題」について言及する。

物的に再現不可能な標題A、ある物的・心的にその曲にふさわしい(と思われる)標題B、先行して存在するモノを音楽的に翻訳した標題C、の3つを問題とする。

マーラーは標題を好まず、生涯にわたり標題を嫌み拒んできた。そのように思う経緯に「巨人」がある。2部からなる交響詩として世に出た交響曲第1番は、まさに若気の至り的な経緯で全ての楽章にプログラムが付けられた。(特徴的なのが2楽章)それは標題B的なものだ。

その曲の解釈を聴衆に正しく伝えたいというマーラーの意思とは裏腹に、解釈は右往左往し、標題C的に広まってしまった。本当であれば、言葉で表現し難い標題Aに導きたかったと考えていた。

標題Aは言葉では説明が不可能な、マーラーの内的な、時間変化の激しい、その刹那的な思想や感情や思いなどが入り混じったモノを表す標題であり、交響曲はそのための標題音楽である。しかしそれは往々にして正確に伝わりづらい。であれば、標題Bを用いて、正しく導くのはどうか、とマーラーは心許した友人に唆され、詳細な説明を付けた結果、ジャンパウロの小説「巨人」の内容に沿った、または参考に作曲した交響曲だ、と標題C的な解釈が誤って広がってしまった。

それ以降、マーラーは交響曲に一切の標題を用いていない。であるのに、今日の交響曲には必ずと言っていい程、標題がつきまとう矛盾が生じてしまっている。その中で特徴的な事例を取り上げる。

【例】マーラー交響曲第7番「夜の歌」

交響曲第7番でこの標題を心に据えて耳を傾けるとき、最終楽章のお祭り騒ぎに疑問を持つのは当然のことであるし、聴いたことがある方は誰でもそう思ったであろう。この「夜の歌」から連想される曲想は趣のあるしんみりとした最終楽章を思い浮かべてしまい、裏切られてしまうのである。しかし、それは裏切りではない。これはミスリードを招く「あだ名」でしかないのである。

7番の中の2楽章と4楽章は夜の音楽である。夜曲はこの2つの楽章に当てはまる曲想であり、タイトル(表題)でもなければプログラム(標題)でもない。

特徴的な「あだ名」にはベートーヴェン交響曲第5番「運命」や、ショスタコーヴィチ交響曲第5番「革命」などがあり、それに当てはまる。「あだ名」を悪者とみなすことがある程度不適切である例としては、「ブランデンブルク協奏曲」、「ゴルドベルク変奏曲」があり、あだ名で広く親しまれるようなプラス効果があったものも事実である。

交響曲は作曲者の内的思想を音楽という技術で再現する行為であり、このあだ名も付属された時点でその「作品」の一部となってしまう。作品となってしまえば、それはそう思うしかない材料となり、その材料が最適なモノ(言葉)でなければ、それはただの邪魔者でしかない。最終楽章に違和感を覚えたり、様々な解釈で議論になってしまうのはそのことによる弊害である。「夜の歌」は今となっては日本で多く見られるようになってしまった「あだ名」であるが、今一度この「あだ名」を自身の内から完全に捨て去り、ただその音に集中して聞いてみてほしい。最終楽章の輝かしい音の洪水の中で、空前絶後のカタルシスに似た何かを必ず感じることができる。

では「夜の歌」と呼びはじめたのは誰なのか?それは、商業主義によって恣意的に生み出されたものであり、現在、怠慢や惰性で使われ続けてしまっているというのが事実である。具体的に誰がつけたのか、というのは明確になっていないが、これは間違いない。

特に広く知られていなかった交響曲第7番は、とある2つのレコード社から発売されることになる。細かいことはさておき、同時期に売り出すレコード社が何を考えて世に出すか。それは少しでもほかの会社よりも早く販売に踏み出すこと、そして競合他社よりも少しでもインパクトのある「広告」を打ち出し、購入者の目を引くことである。この経緯により、先に発売することのできた、ウラニア社の交響曲第7番に「夜の歌」という標題がついてしまったのである。(先にも述べた通り特定の誰がつけたのかは不明であるが、おそらくレコード産業内の人間、またはその周辺の人間であろうとのこと。)次点で出されたレコードには「夜の歌」という標題はついていない。むしろ、競合他社に出し抜かれたのであるから、メンツのためにもつけることは許されない。その後、約10年の空白があり、次々と様々な交響曲第7番発売され、少数派ではあるが僅かに「夜の歌」と標題が付けられたレコードが存在していたが、次第に否定的・批判的な意見が増し、現在はほとんど使われていない。であるのに、日本ではこの標題がいまだに広く使われてしまっているのである。

同じことの述べるようであるが、マーラーは交響曲に標題を付けることを嫌い、拒んできた。「夜の歌」は正式にマーラーが標題として許可したわけでもない、ただの商業主義的思想が生んだ妄想に過ぎない。

マーラーの交響曲に「何を」聴くか。

マーラーの交響曲に、絶対的な正解はない。
どのように聴くべきか、どのように想うべきか、そんなことに思いをはせる必要もない、ただ存在する交響曲に1時間耳を傾けることで、初めて見えてくるものがあなたにとっての正解なのである。芸術作品はその作成された「背景のやりとり」も、勿論必要な要素であるが、それ以上に重要なのは「作品のやりとり」である。その「作品のやりとり」には、作曲者と我々聴衆の間には直接的ではなく、間接的な関係が成立する。標題Aのような、物的に再現不可能な標題Aというのは、正解があるようで正解がない、脆いものだ。確かにマーラーは内的に湧き出た標題Aを意識して、それを交響曲で再現しているが、その再現性は限りなく低いという矛盾も存在する。一度その矛盾に立ち向かおうと、「巨人」という標題も使ったが失敗に終わっている。だからこそ、作品自体に思考を巡らせることで見えてくる、言葉では表現しがたいインスピレーションこそが独自の正解で、それは決して不正解ではないのである。そのような素敵な作品に、あえての標題は必要であろうか。

正解が無いからこそ、標題を、文字としても、心にあるイメージからも解放し、目を閉じて、静かに応答(聴く)すべきであると気付かせてくれる。

長大な交響曲(10番は未完)には、マーラーの内的意思に結びつく、個々が感じるカタルシスが必ず存在するはずである。

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