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十七音の視線のひろがり 山岸由佳『丈夫な紙』(素粒社)一句鑑賞

 今年の初夏に京都でひとに薦めてもらって、山岸由佳という俳人の句集『丈夫な紙』(素粒社)を読んだ。歌集とくらべると句集を読む機会はすくないので、俳句という形式が有する表現そのものへの発見や気づきばかりに意識が向いて、まだ振り回されている感じがする。
 たとえば後半の「鳩のゆめ」という章のなかで「春日部さくら霊園八句」という詞書が置かれたうちの二句目に、こんな句がある。

雉鳴いて仏花地に置く男かな

山岸由佳「鳩のゆめ」

 この句に私は不思議なほど惹き付けられて、頁を繰る指さえ止めて確かめるように繰り返し味読した。
 鳥の鳴く声が思わずひとに空を見上げさせるように、発句の「雉鳴いて」で視線は空にむけられる。わざわざ「雉鳴いて」と発句に置いて雉の声を際立たせているのだから、あたりは静まりかえっているのだろう。ケーンという、誰しも聞いたことのある特徴的なあの鳴き声は雄のもので、繁殖期にあたる春から夏にかけて明け方から昼前によく聞く。そのため、雉は春の季語としてあつかわれる。この句のなかで雉が鳴いているのも、その静けさから明け方の空だろうか、想像するとすこしどきっとさせられる。
 続く「仏花地に置く」で、場所は墓地であることがわかる(屋内であれば「地に置く」と詠むのは仰々しいし、なにより発句で示した空のイメージとそぐわない)。言外に置かれた墓地のイメージは、発句の「雉鳴いて」が暗に示す静寂とそれが打ち破られるイメージに呼応して、地下を走る水脈のように情景を浮かびあがらせる。天に向けられたカメラは同時に地にも向けられる。カメラが引いて全景が収まったようでもある。あるいは、シネマスコープサイズの上下に配されたレターボックスが徐々に画面から外れて、アスペクト比がひろがっていくような演出を思い出す。そしてひろがった画面の中央には「男」が佇んでいる。

 男が仏花を「供える」のでなく「地に置」いている点にも注目したい。仏花を携えて墓地にいるのであれば、男はこれから墓前に仏花を供えるつもりなのだろう。
 翻れば、それは句のなかではまだ為されていない。地に置いたのは、手水舎で清めようとひととき置いたのか、あるいは墓に水を流す柄杓や掃き清める箒を取ろうとして一度手を離れたのか。明け方に墓地を訪れて花を供える男。状況が具う物語性を、しかしあくまでこれからなされるひとつの厳粛な儀式、その直前の出来事をこの句は詠んでいる。だからこそ、これから何かが起きるかもしれない予感を秘めている。

 この句の面白さが俳句本来のものなのか山岸由佳という俳人の資質なのか、ふたつを分けて評することができないから、まだ私のなかで俳句の読み方ができあがっていないのだなと思う。
 高浜虚子の唱えた「客観写生」ではないが、俳句とは詩の文法でなされる写実であると感じる。短歌よりすくない音数であるがゆえに、写実はより研ぎ澄まされたものを求められ、いわば作品のなかに私じしんを詠む余裕はない。しかし、それは俳句に私性が欠落しているのではない。写真家本人が映っていなかろうが、写真は作家性を帯びるのに似ている。世界のありようを写実する視線そのものに私性は宿る。

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