忘却の彼方

人生の中で強く心が動かされたこと、心が暖まるような出来事があった。僕はそれらを覚えておきたい、引き出しにしまっておいて、心の空白を覚えてしまうような夕陽を浴びながら取り出してみたい、と思わずにいられない。あるいはそれを言葉に紡いで、心の命綱のようにしたい、と願ったこともあった。この気持ちがあれば僕はこれからもう少し胸を張って生きられるかもしれないと本気で思って、その気持ちを失うことを恐れた。この気持ちをくれたあなたのために失いたくないと本気で願った。

でもやっぱり気がつくと、大切にしていたものも時の流れに流されて、忘れてしまっている。例え文字の形にして残そうとも、その文字をいくら味わいながら読もうとも、忘れてしまったという感覚が付き纏う。あの時の言語化が下手だったというだけでは心が納得してくれない。そこで僕は気づく。恐らく、大切な気持ちはそもそも残せない。いくら気持ちをことばに埋め込んでも、心の動きを素直に言葉に残しても、そこにある瞬間の何かを後々になって蘇らせることはできない。時間が経つほどに難しくなってしまう。

僕は大切なものを忘れてしまったのだろうか。もしかしたら、忘れてしまった何かを覚えていれば、僕の心はもう少し救われていたのかもしれない。そうだとするととても残念なことだ。でも、僕のこれからを形作るのは時の流れに流されてもなおこびりつく何かなのかもしれない。あの時に心に深く響いた音楽を久しぶりに聞いた。僕の中に変わってしまったものと変わらないものがあることに気がつく。状況が変わっていってあまりあの時のことを考えなくなっても、きっかけがあれば強く思い出せる思いがある。これはかつての僕と今の僕を繋ぎ合わせる何かだ。あの時の出来事は時間とともに部分部分を切り落としたり変質したりしながら記憶として存在し続けて、その変わってしまった記憶が過去の僕と今の僕を繋ぎ止めてくれる。その過程にあったあらゆる変質や忘却がこれからの僕の人生において意味を持つ。僕の人生と記憶がお互いに影響を及ぼしながら存在し続ける。それこそが記憶のあり方だと思える。

かつて残したいと願った瞬間の全てを、必死な思いで記録媒体に残した。でも、きっとその媒体に残る記録を見て感じる気持ちは、どう考えてもあの時の気持ちと違ってしまう。違う、と心で感じてしまう。そこにあった事実は残されたはずなのに、そこに確かに存在した重大な何かがその時点に取り残されてしまったような感覚が残る。もしかすると、1番記憶を保存してくれるものは記録ではなく、その時に自分の気持ちを仲介してくれた記録ではない何かかもしれない。その時に深く心に響いたものを通じて、その時の気持ちの断片が思い出されるのかもしれない。その断片は確かに忘却の彼方にあるものだけど、これが確かに過去の自分と今の自分を繋ぎ止めてくれる。記録に残らずとも記憶にこびりついたもの、今でも胸に感じることができる何かだけが時を超えて人生を形作る記憶という糧になってくれるように思える。

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