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月光浴 足すということ

 10月に発表されたヨルシカの新曲、月光浴。曲全体として一貫した表現世界を持ちつつ、とても印象的な仕上がりとなっていた。特にサビの歌詞は、メロディの壮大さと相まって強くリスナーにインパクトをもたらした。

 1サビの歌詞を見ることにする。
「足して、足して、溢れて。
足して、足している分だけ、過ぎて。」

 足して、という言葉選びはどこか不思議な感じがする。「足す」というと、どこかに入れ物のようなものがあって予めその中に何かが存在しているという風な趣が感じられるからだ。ここで言う”入れ物”や”入れ物の中に存在する何か”というのは、簡単には明らかにならない。そもそも、月光浴のような曲に触れない限り、我々が生活で「月日に何かを足している」と自覚することは起こりにくい。それではいったい「月日」をどのような視点でとらえれば、我々の生命活動を「足す」ことになぞらえることに合点がいくのだろうか。以下は一つの解釈を提示する。無論、解釈は個々の価値観や世界観に基づいて個人的に行われるべきものだ。以下の解釈は、一連の個人的な解釈の過程を踏んだ人向けに一つの参考意見として提示されるものだと理解して欲しい。

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 この「足して」という歌詞において時間というものは、絶対的な"瞬間"を抜けだした大局的な視点から捉えられている。つまり、月日の流れを月光浴になぞらえることで、時の流れを客観視し、象徴的表現に置き換え、その美しさを強調することに成功しているのだ。
 
 時の流れは、水の流れや、月光の波の流れになぞらえられる。絶えざる時の流れの中に1人立つ僕は、様々な人とともに流れに身を任せつつ、その流れに自らの存在の痕跡として行動や思いを付け足す。しかし、僕がこの手で付け足したものは僕の手を離れた瞬間、流れのままに行ってしまう。もしかすると、やがて流れから溢れて、過ぎてしまうかもしれない。溢れて、過ぎてしまうことは、後の世から失われるということだ。
 それでもなお僕は、波のうちに自らを足すことを辞められない。僕の存在など、後の世ではすっかり無かったことになってるかもしれないのに。それでも僕も君も流れの中に自らを足し続けるのだ。たとえば水の流れにおいて一旦流れに身を預けたものは、流れから溢れない限り、摩擦によって形を変えつつも流されていく。形が変わっても質量保存的に物質の総量は保たれる。時の流れにおいて人々が足し続けてきたものは、流れのうちにある限り、形を変えながらも受け継がれてゆく。僕や君の形が跡形なく失われても、僕や君が足し続けたものの欠片は、きっと未来にも流れてゆくと信じて足し続ける。そうやって過去から現在、そして未来へと時が流れてゆくのだ。人々が時の流れの波に自らを足し続け、その分だけ時が流れてゆくのだ。

 月光の流れの発生源である月は、夜に見ると眩しい。時の流れ全体に美しさを見出し、肯定する一つのあり方である。

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