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作品の価値 について

「作品の価値は作者に依存しない」

 これについて僕は、どちらかというとそのように思っておくべきなのだと基本的には考える一方で、どうしてもそう思いたく無い、あるいはそのようには思い切れない部分がある。

 作品というのは作者の魂が込められたものなんだから、ということをよく耳にする。確かにその通りだと思う。しかし、やはり作品というのは作者の人格の反映に留まらないものだ。作品とは、音楽的な、言語的な、その他芸術的な表現のあり方の枠内で作られているもので、その枠の助けを借りてこそ、作品は作品たり得る。だから、作品が素晴らしいということは作者の人格の美しさの証明になり得ないのだ。例えば、誰が聴いても素晴らしいと思うような音楽があったとして、その楽曲は音楽という枠自体が求めている表現と、その作者の人格の"一部"が有機的に結びつくことで、素晴らしくなったのだ。たしかに楽曲の表現と作者の思想とは深く結びついているものだが、素晴らしい楽曲は作者の素晴らしさの証明にはならないのだ。(だから、素晴らしい作品を産んだからと言って作者はそれを理由に威張ってはならないのだ。)
もしたとえ貴方が、作中に貫かれている価値観に大層共鳴したと感じたとしても、それが間違いでないとしても、その作中に描かれた人格というのは作者の人格の一部に過ぎず(音楽と有機的な結合をもたらしうる部分だけが作品の中に落とし込まれているにすぎず)、その作者の人格の全体と共鳴したことを意味しないのだ。
あくまで「音楽という枠内で描かれたものが貴方の心を動かした」というのが断言できる事実なのだと思う。

 一方で、作品の価値は作者の人格のアレコレに依存しないんだ!と言い切ってしまうのも流石につまらないなあと思う。
 素晴らしいものに出会った時、その作者のことを知りたいと思うこころはすごく自然な心の動きだと思うし、それを否定してしまうことになるのはつまらない。
 そして、実はこれが一番言いたいことなんだけれど、作品が現実世界に対して持ちうる力がある、ということについて考えると、「作品は人間の内面と関わりなく作品として独立した存在」なのだと仮定した瞬間に、その作品は現実から乖離するしてしまい、これは本当に勿体無いことなのだ。

 すべての作品は、一つの世界であり、ささやかな祈りの結晶、なんだと思う。

 人が作品をつくろうと思うこと、つまりそれは世界を生み出すことを通じて、少し、世界を変えたいのだ。変わらなくても、変えたいのだ。自分がみたい物語の世界を作り上げたり、あるいは自分の中の叫びを物語に投影したり、そうやって作られた作品を誰よりも作者自身が見て、そしてそれを受け取った人の反応を見て。自分が、あるいは誰かが、そうやってその作品への没入した瞬間、自分の中で普段は埋もれてしまっている何かが昇華されたように感じることができたりして、、その一瞬!、その一瞬、のために、作っているのだ、それが良いことか悪いことかなんて分からないけれど、それでも、その一瞬、いや、実は一瞬なんかじゃ物足りなくて、永遠に続いていくようなひとかけら、それを自分のうちに、自分が生きる世界のうちに、大切なひとのうちに、追い求めて、何かを作りたい、そんな気持ちが発するのだ。あくまで独立した存在であるはずの作品が「現実に力を持つ」瞬間、その瞬間が何よりもかけがえなく、その瞬間のために作品は存在しているともいえるのだ。

 だから「作品は現実のあらゆる事情から独立しているのだ」という考えは流石につまらないと感じてしまう。愛がないよ、愛が。
 なので、作者の名誉が著しく失墜し、ネット上で「こんな人が作った作品なんて聞けない!」というコメントが溢れ、作品の評判までもが貶められるのはとても悲しいことではある(その気持ちには強く共感する)が、それはある意味では作品が現実と結びついているが故の副産物とも言えるのであり、そんな酷いコメントであっても、愛をもって見守りたい、と、基本的にはそう思おうとしている。

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