『ソクラテスの弁明』を約20年ぶりに読み直すと、ソクラテスを尊敬できなくなっていた。

大学の時に読んだ『ソクラテスの弁明』。光文社文庫の新訳版を買って読んでみる。

知の探求において、無知を自覚することが何よりも大切である。知ったかぶりをせずに、知らないことを意識して学問に臨むべきである。

当時読んだときの解釈はいかにも学生らしいものだった。

私は今や40代の中間管理職の会社員である。目下の関心は、世の中を知ることではなく、会社の課題解決である。

わからない問題に立ち向かうには「なぜ」を繰り返すのがよい。「なぜ」を5回繰り返すと問題の本質的な原因にたどり着く、とは大手企業が推奨する問題解決の手法である。

しかし、「なぜ」を他者から繰り返し問われるのは不快である。会社員になりたての頃は、よく上司に詰められていた。

多くの人の前で、自分がいかにできない人間か、勘違いしていたか、よくわかっていないか、を指摘されるのである。

しかも、「こうすべきである」という助言や指導ではなく、なぜ、なぜ、なぜを繰り返すだけ。私は答えに窮した。そのときに格別な侮辱を感じた。

そうした経験から、私は部下に対して人前で詰めることをしない。うまくいかなかった原因や対策は自分で考えれば良いと思っている。指摘をする場合にも、二人きりになったときに指摘する。

なぜこの話をしたかといえば、ソクラテスの行いが昔の上司を思い起こさせたからである。

ソクラテスはなぜ裁判にかけられたのか。つまるところ、彼は他者の無知を暴こうとしたからである。

確かに、ソクラテスに論駁された連中というのは、本当に薄っぺらい知識だけの専門家や政治家だったのかもしれない。

ソクラテスは、彼らが実は「何もわかっていないくせにわかったふりをしている」ことを公衆に伝え歩いていたわけだ。

おそらく本人にはその気はなくても、彼らを小馬鹿にしたのである。

この点を突き詰めれば『ソクラテスの弁明』には、「無知であること自覚せよ」という哲学的なメッセージの他に、もう一つの皮肉めいたメッセージがあるようだ。

つまり、他者への配慮を欠く言動は不幸を招くという事実である。

世の中には自分の知っている知識が他者よりも勝っていると思って、他者を見下す人間がいる。一方で、論理を武器にそうした識者に議論を仕掛けて論破することで、相手を侮辱する人間もいる。

正しさを主張するために相手を攻撃すれば、相手はいかに正論であろうとも受け入れはしない。

そんな人間模様は現代でも同じである。

本当の知者というのは他人のプライドを傷つけない。意見を言うときでも、やはり相手への敬意を払って行うべきだし、むやみに相手の主張に反論する必要はないということである。

ソクラテスのように、議論をふっかけて相手が答えられないことを「あいつは知ったかぶりだ」と吹聴するやり方は実社会においては通用しない。

意見の違う人間への接し方という点では、デール・カーネギーの『人を動かす』のほうが役に立つ。



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