『ケーキの切れない非行少年たち』に似た友達を知っている。
娘に勉強を教えた。小学校に入る前からひらがな、カタカナが書けるようだ。足し算や引き算も、小さい値ならばお手の物だ。
自分の子ども時代はどうだったろうか。
文字を読んだり書いたりするのは、娘の年よりももっと後だった。それでも、小学校、中学校では成績は良く、高校では進学校に進んだ。
そんなに勉強をしたつもりもなかったが、授業で先生の話をよく聞いて、宿題もしっかりやったからだろうか。苦労した記憶がない。
そういえば、全然勉強ができない友達がいた。家も近所で、小学校も中学校も同じクラスだったのでよく遊んでいた。彼の成績は中学校では特にひどく、いわゆる赤点ばかり取っていた。
中学3年になると、自然と一緒に遊ばなくなり、彼はだんだん不良になっていった。
突然、廊下で奇声をあげて暴れまわったり、悪いグループとつるむようになってしばしば学校を休むようになった。
かつての友達にも暴力を振るうようになり、周囲ともうまくコミュニケーションができなかった。
私は次第に彼を軽蔑するようになっていた。汚い言葉を吐けば「バカ、アホ」の類だと思っていた。
反抗期だからという理由で片付ければ済むことではある。15歳は思春期である。私だって親や教師への反抗心はあった。
しかし、自分は彼とは違い、友達や周囲にキレることはなかったし、親への反抗心も我慢しながら、この町を出るためにと自分なりに、計画を立てていたのである。いわゆる子どもからの卒業を目指したのだ。
それに対して、彼の態度はまるで子どもであった。うまくいかない怒りを周囲にぶつけて、悪さをし放題。
彼との比較がますます私を苛立たせたのだ。
案の定、彼は高校受験に失敗した。それ以来、彼には会っていない。彼の実家もいつの間にかなくなっている。
同級生の話では、19歳で父親になり、市内で3人の子どもに恵まれて幸せに暮らしているという。
あれから30年以上の月日は流れた。今となっては彼が勉強できなかったのは、「馬鹿だから」でもなく、「人の話をきかなかったから」でもなく、ましてや「勉強自体を怠ったから」でもなさそうである。
『ケーキの切れない非行少年たち』を読んだ。認知障害という可能性が、彼にもあったのかもしれないと思った。
程度のこそあれ、勉強のできなさ、ソーシャルスキルのなさは一種の障害なのだ。
当時そうした可能性は、教師や親でさえ考つかなかったであろう。
私を含め何も知らない連中というのは平気で、人をあれこれと評価したがるものだ。
育ちが悪い、親が悪い、ただの目立ちたがり屋だ、など彼に関する批判を数多聞いた。
もし周囲が、彼の認知能力に障害の疑いを持ち、何か手を打っていれば、あるいは、一種の病気として受け止めてあげることができれば、と今になって思うのである。
科学の進歩は目覚ましく、一昔前には解明できなかったことが少しずつわかりはじめている。それによって、これまでの価値観は大きく変わってきている。
今の職場でも「やる気のない態度」や「頻繁な欠勤」には決して「やる気を出せ」と叱責することなかれとしている。うつ病のサインかも知れないからだ。
生理痛に対しても「病気じゃないんだから我慢しろ」といった発言はすでにパワハラに認定される。
勉強の出来不出来についても、あまりに成績が悪い子に対して「しっかり勉強しろ」といっても意味がないことは周知の事実である。
単にバカと決めつけることは論外である。
例えば、のび太のような0点ばかりとる子を廊下に立たせることに違和感があるといった議論もネットではよく散見される。
何度も0点をとる子は「障害を疑うべきだ」というのが21世紀の常識である。
世の中は少しずつ良くなっている。
認知障害はどの子供にもありえる。勉強が嫌いになるのは、認知障害のせいで何度教えてもらっても理解できないから、なのかもしれない。
しかし「読んだり書いたりできない」「人の話を理解できない」ことを障害と気づくにはかなり難しいようだ。
周囲が注意しながら、そういう人と関わっていくことが大切である。
そもそもいくら勉強しても、覚えられないものはある。仕事だってそうだろう、いくらマニュアル読んでもすべて覚えられないのは当然である。
できないことに落ち込む必要もないし、できない人間にイラつく必要もない。
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