『プロデュースの基本』はとにかくやってみること

能動的であることがプロデュースの基本である。

積極的に何かを行って有形、無形にかかわらず価値を生み出すことがプロデュースである。

人生を通して、あるいは仕事を通して、自ら行動して成果、作品、モノ、サービスを生み出す人はプロデューサーである。

プロデュースするためには、受動的であってはいけない。例えば音楽を聴く側ではなく、楽器を弾き、音楽を作る側に立たねばならない。

しかしプロデュースのきっかけは受動的である。

私は中学時代バスケット部に入り、県大会ベスト4まで行った。バスケットを始めたきっかけは漫画である。漫画を読み、興味がわき、NBAのビデオを借りて見た。高校生の試合も見に行った。

そしたら自分でもやってみたくなり、バスケット部に入部した。

受動が能動に変わった瞬間である。しかし、行動を開始しただけではプロデュースにならない。うまくなるための訓練が必要だ。そして何らかの成果を出さなければならない。

シュートやドリブルを何度も何度も繰り返し練習して、試合に出て得点を入れ、勝利という成果をあげた。

本書の主旨に従えば、こうした行為はすべてプロデュースと呼べるのだろう。

しかしどうも表面的な感じがする。

私のバスケットの経験と、著者であり音楽プロデューサーの木崎氏との違いはなんだろうか。私のプロデュースに説得力がないのはなぜだろうか。

答えは明確である。私には継続が足りなかった。好きなものを突き詰めて作品を作り続けるからプロデュースは大成する。

私がプロのバスケットボール選手になれなかったのは、努力を継続できなかったからである。中学を卒業すると、私のバスケットボール熱は冷めていた。

高校にはいると文学にのめり込み読書好きが高じて、自分でも作品を書くようになった。一時は寝食忘れるほどに読んだり書いたりしたのだが、それも受験シーズンが始まるにつれ筆は遠ざかり、気がついたら辞めてしまっていた。

人生のどこかで「自分にはこれしかない」と思って、のめり込める興味対象が見つかった人はその熱量を維持しながら、もっとよいものを作りたいと努力を重ねるのだろう。

他のものを考えられないくらいに興味を惹かれるものに出会えるのは運命かもしれない。

将棋の藤井聡太二冠もそうだろう。小さい頃に将棋に出会い、将棋にのめり込み、中学生でプロになった。タイトルを得た今でも、究極の指し手を求めてひたすら努力をしている。

そういう意味では、プロデュースが大成するかどうかは「運」だと諦めるほうが納得する。

では移り気な自分はプロデュースできていないかと言うとそんなことはない。何かしらに興味を持って能動的に何かを生み出している以上、私もプロデューサーである。

本書を読むと、プロデュースがなにか大きなことを成し遂げることのように感じてしまうが、大成するかどうかは気にせず、とにかくやってみたいことに挑戦するのみである。



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