寺田寅彦を読んで自己表現について考える

寺田寅彦は科学者でありながら、夏目漱石の門下に入り、文芸にもあかるいエリートである。できる人間というのは、文系だとか理系だとかというのは関係ないのだろう。

本書は、寺田寅彦が科学者としての視点から、文学について、あるいは文化について書いたものだ。こういう人間にとってみれば、文系と理系に大きな逕庭がないようだ。

つまり、科学者が数字を使って事象を表現するのに対して、文学者は言葉で表現するだけの話なのだ。

寺田は、西鶴や芭蕉を引き合いに出して、文学にも科学と同じ側面があると論じる。彼らの作品にある自然の描写は、科学的な数量で示す記述に勝るとも劣らず正確であると評している。

このエッセイで一貫して寺田寅彦が唱えているのは記述の方法論であろう。つまるところ、芸術も科学も世の中の事象を記述する手段である。寺田に言わせれば、小説さえも心理的な実験であり、真理を導き出す点では科学と変わらない。

さらに寺田は、映画や生け花も論じ、記述方法から表現方法へと話を広げている。

悲しみや怒りといった感情、価値観や生き方を何で表現するか。ある人は絵を描くことである。ある人は演じることである。ある人は音楽を奏でることである。

人間はそれぞれが自分を表現する方法を持っている。本書を読んで、そんなメッセージを受け取った。

子どもの時分から、いわゆる国語、算数、理科、社会だけでなく、美術、書道、音楽などを義務教育で受けてきたのは、実はこのためだったのではなかろうか。

自分にぴったりくる表現方法に出会うために、様々な学科を勉強していたのかもしれない。そう思った。

受験戦争の勝ち組である私にとって、試験科目以外にはなんの価値も見いだせなかった。中学では、美術はサボり、音楽はたて笛で脱落した。

幸いに文章を書くことはなんとかできた。私にとってこれが唯一の表現方法であり、おそらく自分の考え、気持ち、価値観をすべて表現できるものなのだ。

世の中には表現する方法が溢れている。芸術だけではない。プログラミング然り、スポーツ然り、あるいはビジネスも然り。人間が活動するものの中に自分を表現できる場所があるのだ。

一流アスリートを見れば感動するし、一流経営者が生み出す商品に消費者は熱狂する。自分を上手に表現できる人は、人の心を動かすのである。

そうであれば文系か理系かといった小さな議論ではなく、自分にとって最も適した表現方法を見つけることこそ教育であり学問なのだろう。

最近、子どもがピアノを習い始めた。家では無心で絵を描いている。英語の歌も歌っている。幼稚園のお遊戯会に向けて芝居にも力を入れている。

子どもには自分を表現できる方法を見つけてほしいと願っている。

文系、理系という枠ではなく、幅広い選択肢の中から「これが私を表現できるもの」と言えるものを。


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