『バンクシー』を読む。アートを純粋に楽しみたいと思った。

現代アートと呼ばれるものには理解に苦しむ作品が多い。

特に私が腰を抜かしたのは、デュシャンの『泉』である。便器をひっくり返しただけのオブジェである。

芸術に美しさを求めている私には、こうした作品が現代アートの傑作と評価されることに違和感を感じている。

しかしながら、書店へ足を運べば現代アートの鑑賞に関する著書が数多並べられている。

いくつかの本を立ち読みしてみると、アート鑑賞とは、その作品から自分の解釈を見つける出すという能動的な作業だという。

混沌とした時代において自分で考えて答えを出せる人間の養成のために、現代アートは必須の教養になっているそうだ。

こうした主張に反対する気はないが、私は芸術を楽しむことを好む。

バンクシーの作品は非常に楽しい。頭を使う現代アートの作品と比べると、美しいと感じるし、そしてメッセージもわかりやすい。

バンクシーは今や21世紀を代表する匿名ポップアーティストである。彼の作品が、どの現代アートよりも身近に感じるのは、グラフィティであるからなのかもしれない。

つまり、バンクシーの作品が魅力的に感じるのは、教養と祭り上げられた現代アートと対極にある芸術なのだ。つまるところの反エリート主義、反スノビズムが世界中の大衆を熱狂させている。

バンクシーの反エリート主義的な要素とは何か。

1つ目は、ストリートパフォーマンスであること。いくつかの都市ではグラフィティは犯罪である。法の目をかいくぐり大胆に作品を仕掛ける姿は、ルパン三世のようなヒーローを想起させる。

アートテロリストとは面白い表現である。

公共の場をキャンバスに選んだのは芸術の開放である。芸術は、美術館という閉じられた場所で限られた人間のみが味わう崇高なものではない。

誰もが無料でいつでもアクセスできるもの。そうした意図が読み取れる。

2つ目は、匿名性である。ネット社会において匿名性は人々に多くの機会を与えた。私も今、ネット上で匿名を使ってこれを書いている。匿名の利点はなにか。それは、純粋さである。

企業名、役職、資格など自分を彩る修飾をすべて取り払ったとき、作品だけが評価の対象になる。匿名性は名前や権威で価値を決めてしまいがちな支配システムへの抵抗である。

しかし、逆説的に「バンクシー」という匿名が有名になりすぎて、もはや匿名ではなくなったという指摘もまた真である。

こうした要素によって、バンクシーは大衆のヒーローになった。反エリート主義が意図的であるならば、彼のセルフプロデュース力に驚嘆するばかりだ。

しかし、バンクシーの作品もさることながら、バンクシーを生み出す土壌にもまた感嘆せざるを得ない。

グラフィティに対して寛容であり、かつ世の中を皮肉る風刺を許してしまう、イギリスの懐の深さよ。

日本で落書きをしたなら罰金だろう。中国で風刺画を書いたなら投獄だろう。

グラフィティをアートとして認め、権威やエリートを茶化しても、それに過剰に反応せず大人の対応ができる国でなければ、バンクシーは大成しなかっただろう。

エリートを目指さなくても、教養を高めなくてもいい。アートは楽しむもの。あまり飾らずに気取らずに作品と向き合いたいものである。

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