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投石中毒

ともかく、賽は投げられたのです。
放り出された肢体をただ自然に任せれば角は次第に削られ、世間との摩擦に苦しむこともなくなります。
しかし、球状になって面を失うことは私の本懐ではありません。
最後にどんな目を出すことができるのか、それだけにしか興味がないのです。
どんな結果が出ようとも、どうか祝福してやってくれませんか?


私は元来明るい性格だった……と続けば、何らかの凄惨な事件によってそれが奪われたと思うかもしれませんが、それほど困難な幼少期を経たわけではありません。
善良な両親に愛されて育ち、人並みの苦難はあったかもしれませんが、それ自体はかつての明るい性格に陰りを差す要因になる程のことではありませんでした。
最も根本的な原因になるのは、私が四つの年に突然始まった、ある奇怪な夢のせいなのです。
夢は、素足の私が焼け付く陽射しの中、鴨川に掛かる五条大橋の上で立ち尽くしているところから始まります。
その目線の先には幼い私がようやく抱えられる程の白みがかった大きな丸石が置いてありました。
当時の私にとって、その石は何やら神秘的な魅力を感じさせ、朝になって目覚めるまで見つめ続け、しばらくの間、頭の中に確かな存在感を放ちながら巣くっていました。
しかし、夢というものはそもそも奇怪なものであって、この程度ではとても奇怪だとは言い難いでしょう。
この夢が奇怪なのは、望む、望まぬに関わらず、病質的なまでに繰り返し続けるという点にあります。
繰り返すにつれ、日常に組み込まれると、この石を眺め続ける行為は酷く馬鹿馬鹿しいように思えてきました。
素足の私は舗装されたコンクリートの上をひたひたと歩き、その石に触れてみたのです。
いざ触れてみると、少しひんやりとしていて気持ちが良いというくらいでかつて感じていた神秘的な魅力はほとんど薄れて消えていました。
その後すぐに、何の気もなしに持ち上げてみることにしました。
手の力だけではとても持ち上がらず、下から抱え込み、肩で担ぐようにしてようやく持ち上げることができました。
担ぎ上げた時に感じたあの何とも言えない妙な達成感を今も、昨日のことのように思い出すことができます。
この感覚は私にとって幼少期故の無邪気な好奇心の象徴で、免罪符にもなっていたからです。
でも本当に持ち上げた瞬間、ちょうど自重ほどの重さの石を持ち上げたことで幼かった私は、すっかり得意になり全能感を持ったのは紛れもない事実だったと思います。
それが、愚かではあっても無垢で悪意のないものだったと今でも信じています。
橋の上から石を落としてしまうことを思いついたことも、あえて落とす位置を川の中ではなく、川べりの道を選んだことも、すべては無邪気な好奇心によるものだったんだと。
石を落とすために腕の筋力を緩め出した瞬間に、タッタッタという速い足音が聞こえました。
当然、落としかけた石を再び掴み直そうとしましたが、その時にはもうほとんど手を離れていて、最後に指先が無意味に表面を撫でると、そのまま落ちていきました。
鈍い大きな音が響いて、石はランニング中の中年男性の頭を正確に打ち抜いたのです。
頭部は陥没し、大量の血が流れもう助かる見込みは無いように思えました。
少しの間、私は取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと、酷く落ち込んだのです。
ですが、すぐにこれが夢の中の出来事だと思い出し、そうであるならまったく何の問題も起こっていないと自分に言い聞かせました。
視線を感じて周りを見渡すと、皆が私のことを嫌悪の表情を浮かべて見ていることに気が付いたのです。
そして、自分のしたことの恐ろしさが他者の眼差しによってより鮮明になりその場所から逃げだしました。
素足だったことと、余りにも焦っていたことが重なって鋭利な小石を何度も踏んでしまい足の裏が切れて血だらけになった。
そして、熱されたコンクリートと切り傷の相性はまさに最悪の一言に尽きます。
それでも激痛に何とか耐えている内にどんどん感覚が麻痺していき、ようやく、自宅に帰ってみることを思いつきました。
なんとか家の前に着いたとき、一瞬嫌な予感がして振り向くと、直ぐに自分の愚かさを心底嘆きました。
足の裏の傷を庇うために、出来るだけ凹凸が少なく温度の低い白線の上を走ってきた為に、薄紅色の足跡を残しながら来てしまったのです。
これでは、こっちに来いと言っている様なものでしょう。
もっともその時の私は、そんなことを考える余裕も無く、夢であることもすっかり忘れてただ怯えていたのですが。
私は玄関のドアを乱暴に開閉し、自室に飛び込みました。
敷かれていた布団に飛び込んで、タオルケットで頭を覆うように被りました。
顔を敷布団に強く押し付けて、何とか体全体の震えを止めようとしたが、徒労感を強めただけでした。
そうして震えている内に、チャイムが鳴らされます。
私は一層大きく震えて、激しい頭痛と吐き気が止まらなくなっていました。
タオルケットを耳に詰めてその上から強く抑えても、だんだん鳴る間隔が狭まっていくチャイムの音がはっきり聞こえていました。
限界まで追い詰められ、意識も不確かな中、喉にこらえた吐瀉物の香りを最後の引き金にして、胃の中に残っていた個体から液体まで全てを、ぶち撒けました。
それでもゲロ塗れの布団に顔を埋め続ける方が、顔を上げて現実と向き合うよりよっぽどましでした。
しばらくすると、いつの間にかチャイムの音が鳴りやんでいることに気づき、両耳を痛いほど強く抑えていた手の力を少しずつ緩めていきました。
やっと決心がついて顔を上げようとすると、いきなりタオルケットが勢いよく剥ぎ取られ、懐中電灯の強い光が目に差し込みました。
眩しさと警察官の怒号で、ストレス性の頭痛が更に酷くなり、発狂しそうになりましたが、声が出ずに嗚咽しました。
瞼に溜まった涙が眩しさを和らげ、ようやく目を見開くことができると、一気に世界が静寂に包まれ、顔に当てられていた人工的な光がカーテンの隙間から零れた柔らかな陽光に代わっていました。
その時全てが夢であったことを思い出しましたが、拭い切れない罪の感触を、柔らかな光と流れる涙が浄化してくれるような気がしてしばらくそのまま、じっと呆けていました。
意識が次第にはっきりとしてくると、震えや動悸がいつのまにか静まっていき、何度も夢だったということを確認して、ほっと安心して胸を撫で下ろしました。
もっとも、この夢が初まってから一日も欠かさず繰り返し続けているという恐ろしい現実については目を背け続けていたのですが。
その日の晩も、当然いつものように私は橋の上に立っていました。
唯一、異なっているのは目の前にいつも置かれいるはずの石がなくなっていることです。
別に石が置かれてあったとしても、あくまで夢の中で殺したに過ぎないのだから気に病む必要はないと頭では分かっていますが、凶器を見るたびにこびり付いた感覚がフラッシュバックしないとも言い切れません。
あの石を見なくて済むということは、その時の私にとってとにかく喜ばしいことでした。
かつて、私にとって神秘的な魅力を持っていたあの石は、私が殺人犯になった記憶を思い起こさせる忌々しい凶器でしかなかったからです。
ただ、寝転がって人の往来や車の流れでも眺めながら暇を潰していれば平和に朝を迎えることができると信じて疑いませんでした。
数分間虚ろな目で景色を眺めていると既視感のある周りの人間からの訝しげな視線が一つの嫌な考えを思い起こさせました。
そうすると確かめずにはいられなくなり、この考えが正しくないことを祈りながら橋の下の川べりの道を覗いてみました。
そこにはやはりあの石と血まみれの男が当たり前のように居て、その身体に大量のハエが集っていた。
少し近づくと、すぐにむせ返るような腐臭がして吐き気がした。
その時の私は幼く、余りにも臆病だったので男を殺したあの日を途中からそっくりそのままなぞる事を選択しました。
ただ、あの石を眺めているだけの生活を退屈に感じて、変化を望んだがために殺人犯にまでなってしまったという後悔があったからです。
私にはもう、これ以上に悪くなった夢が永遠に繰り返されていく現実に精神が耐えられなくなるという直感がありました。
とにかくなぞる事さえできれば一度耐えることのできた事に、向き合うだけで良いのです。
それに、楽しいものや美しいものに比べれば、痛みや苦しみに慣れるペースはゆっくりかもしれませんが、それでも繰り返せば繰り返す程慣れていくことには違いありません。
この理由は、当時の私の選択がそれほど愚かなものではなかったという弁明のために作成された後付けで考えたもので、ただ得体の知れない恐怖になんとなく怯えていただけだといった方が正しいでしょう。
ですが、十年ものの間あの日を一日も欠かさず、なぞり続けることによって痛みや苦しみに慣れ、正常な精神を回復していき、今ようやく考えることのできる余裕も生まれたのです。
この方法が果たして一番ベストな選択だったかどうかについては疑問ですが、やり直しのきかない状況で一番堅実な選択だったと思います。
そもそもこう言ってしまえば余りに病質的な懐疑主義者だと思われてしまうかもしれませんが、誰も夢が本当に現実では無く夢であると証明することができないのです。
そして、考えてみれば夢を便宜上においても、これは現実では無く確実な夢であると割り切って認識できるのは、大半の人が病質的な程同じ夢を繰り返し、繰り返し見ることがないからです。
つまり、私にとって程度の差はあれど、どちらも現実であり、虚構でもあるので優先順位を選ぶ事はできても、どちらかを切り捨てるということは出来ません。
恐らくこっちが現実であろうという曖昧な直感で、言わば人生そのものである、主観的世界の消失と残存を賭けることは難しいでしょう。
物心ついて間もないころ、何度も繰り返し、同じ本を読み聞かせるようにせがみ続けたことがあります。
その時にも、私は世界が分裂したような気分になったのです。
四つの年の頃の非常に短い期間だけ、現実と夢と物語の三つの世界が殆ど等配分の比重になっていました。
世界が三つになると脳が処理しきれなくなるのか、だんだん境目が分からなくなって最後には、混沌な一つの世界を見ています。
その時私がのめり込んでいたのはある聖書の寓話でした。
その物語は、ある信仰心が強いと言われている無垢で正しく、一度も罪という罪を犯したことのない男が本当にどれだけ信じ続けることができるのか神が試していくというものです。
神は、男の最愛の者を殺し、財産を奪い、酷い皮膚病にかけるなどあらゆる試練を与えました。
皮膚病は耐えがたい激痛に常に襲われるだけでなく、全身が醜く爛れます。
さすがの男もこの仕打ちには耐えかねて、神が正当な裁きを与えているのかと疑いを持ちました。
それでも男は最後に言うのです。「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と。
見事試練に耐え抜いた男は、神から様々な祝福を受け取り幸せに暮らすというハッピーエンドで終わります。
この話を聞いて、私も思い込もうとしたのです。
繰り返す夢は神が与えた試練であり、乗り越えた先には大きな喜びがあると。
ですが私はその物語に出てくる男と私では、大きな違いが二つありました。
一つは、余りに試練の初まる時期が早すぎるという点です。
これでは、物語の男のように幸せを十分頂いたとはとても思い辛いでしょう。
二つ目は、私は既にその試練の中で、殺人という大罪を犯してしまっているということです。
どれだけ与えられた運命に対して好意的に、楽観的に捉えようとしても、少しの希望さえ抱くことが出来ないと、本当に長い間そう信じていました。
そのせいで私の精神は摩耗し続け、いつも白けた面をしている暗い人間になってしまったのです。
それは客観的に自分を見られていないために、そう結論付けたのであって、本当にそれだけが原因なのかと疑ってしまうでしょう。
「いわゆる現実の社会でも貴方は、無視され続けた存在であったのではないか?」と。
確かに私は現実のなかでも恵まれた存在ではありませんでした。
しかし、その苦しみはありふれた人並みの苦しみでしかありませんでした。
それに、人生でたった一度だけ沢山の人達から強い称揚を受けた事もあります。
私は能力が低いわけでもありませんでしたし、噓をつくことに関しては比類なき才能を持っていました。
小学五年生、つまり十一歳のときに現実の世界で一度目の危機が訪れます。
ホームルームで担任教師から放課後残っておくようにと身に覚えのない呼び出しをくらいました。
その内容としては、私がある女生徒から消しゴムを盗んだのではないかという容疑を追求するためです。
確かに私はその時にちょうど数日前、教室の中で持ち主不明の消しゴムを拾ったことを思い出しました。
ですが、盗んだというのはいささか大袈裟で、恵まれない私に対するささやかな祝福として、いきなり舞い込んできたといった方が正しいような気がします。
なので、盗人あつかいをしてきた教師と女生徒に激しい憤りを感じました。
教師が要求する通りに筆箱の中から拾った消しゴムを見せてやると、女生徒は興奮した様子で「ほら、これは私のものでしょ。」と指さしながら私に言った。
その消しゴムを改めて見ると、何の変哲もない使い古され、丸くなったものでした。
ごく個人的な感覚で言えば、この程度のことで問題にすることこそが最も大きな問題であり、私が甘んじて罪を受け入れるべきだとは夢にも思いません。
それを覆すためには、この消しゴムの所有者は自分だと主張し、完全な無罪並びに虚偽告発、虚偽の嫌疑による名誉棄損を受けたとして誠心誠意の謝罪を女生徒と教師から勝ち取ることを誓いました。
ですが、無罪を主張して勝つためには乗り越えなければならない高いハードルがあります。
教師はまず、女生徒のことを信用しきって私が犯人だと決めつけていました。
それもそのはずで、女生徒が嘘をついていると仮定したときに、その虚偽告発の動機として納得できるようなものが何一つ見つからないからです。
所有権を争っている物品自体に、嘘をついてまで手に入れる価値があるとは思い辛く、私に対する恨みという線も殆ど関係性が無かったために非常に考えにくい推察でした。
これが本来の裁判であれば、証拠不十分ですぐに棄却される主張でしょうが、その時場を支配しているのは論理ではなく感覚で、私自身で自分がやっていないことを証明しなければすぐに犯人にされてしまうような空気があった。
この戦いにおいて本当に重要な争点は、具体的な証拠などが存在しない為により、リアリティのある方が正しいとされます。
つまり、より抽象的で感情的な空中戦の部分で完全に制空権を支配されているままだと、より具体的で理性的な地上戦へ移行したときに一方的な防御を強いられることになることは、火を見るより明らかでした。
自分だけが存在しない具体的な証拠の提示を求められ続けて、無様に敗北してしまう未来を避けるためには、取られすぎた制空権のバランスを戻さなければいけません。
そのために私はまず、無垢で正しい、罪に怯え切った小市民を演じることにしました。
極めて混乱した様子で、相手の主張が余りに荒唐無稽な理解ができないという設定で、何度も何度も相手に私が盗んだという主張を繰り返させるように促し、その度に耳を疑うような仕草で新鮮に驚いてみせた。
そして長い沈黙の後、困惑の表情を少しずつ曇らせていき、最後には疑惑の目をまっすぐ女生徒に向けて、瞬きもしなかった。
迫真の演技の成果もあって、厳しい断罪の空気は次第に時間と共に白けていく。
埒が明かなくなった教師は、何らかの発展を期待して抱いていた疑問を口に出した。
「なぜ、何てことのない消しゴムが絶対に自分のものだと確信できるのですか?」と。
すぐに女生徒は白い消しゴムに付いていた薄い紅色の着色を指さし、「この汚れをはっきり覚えている、これは私のものだ。」と強く主張した。
私はその汚れに今、思い出したかの様な素振りをしてから、当然聞かれると思って用意していた返答を記憶を辿りながら話しているようにたどたどしく話して演じた。
「私はズボラな性格で、宿題を終えた時の文房具を纏めてペン立ての中に放り込んでしまいます。その時に、キャップの外れた蛍光ペンのインクが消しゴムに付きました。後日、その着色に気付いて指で拭うと薄く広がってこの汚れになりました。」と。
私が話し終えるとすぐに教師は女生徒に尋ねました。
「あなたは汚れがどのようにして付いたのか答えることができますか?」と。
女生徒は慌てて記憶を辿ろうしましたが、数秒の沈黙の末に「よく覚えていない。いつの間にか付いていた。」と供述しました。
すぐに、記憶の不備を責めたりすることはしません。
そんなことをしても彼女は自分が間違っていたとは認めないでしょうし、平行線の議論を続ける闘争心を高めることになるかもしれません。
それに、まだ教師がはっきり覚えていない方か鮮明に覚えている方、より自然でリアリティが高く見える主張として判断するのはどちらかを見極める事が出来なかったからです。
教師は二人の容疑者の顔を交互に見つめ、何もかもを決めあぐねている事が一目で分かりました。
そこで私は教師に一つの提案をします。
要は、このまま話し合いを続けても進展がないので、新しい情報が出るまでは、一旦消しゴムを教師に預けておくという条件で保留しておくというものです。
教師は自分が判断することではないと、女生徒に選択を委ねました。
彼女は思いがけない展開の連続に驚き、精神的にも疲弊していたこともあって、その要求をあっさり認め、目の前の安息に飛びつきました。
確かにこのまま続けてもお互いが罪を認めなければ、不毛な言い合いが続くだけで結論が出るにしてもあまり、はっきりしないものになるでしょう。
しかし、結論を後日に持ち越すこと、それだけが私の目的だったといっても過言ではなく、完璧な勝利のために不可欠な条件の大きな一つでした。
私は家に帰ると、あの消しゴムに似せた消しゴムを二つ作りました。
具体的で動かぬ物的証拠が無いのなら、新しく創ればよいのです。
翌日、新しく創った消しゴムを女生徒の椅子の上に置いておきました。
案の定、彼女は消しゴムを見つけると反射的に拾って隠しました。
盗難事件を主張した彼女にとって、似た消しゴムが二つ存在するという事実は、不都合なことでしかないでしょう。
ですが、彼女があの消しゴムに似た消しゴムを持っている不可解について追及するつもりは全くありません。
綿密な身体検査が実行可能でない以上、小さい消しゴム一つ隠すだけなら簡単なことで意味のない行為だからです。
この消しゴムは、私が彼女に当てて書いた手紙でした。
単純に同じ見た目の消しゴムが二つ以上存在するという事実と、自分に対する不信感を募らせただけで、何のメッセージも伝わらなかったと思いますが、その時はそれで十分でした。
なにしろ、これからのサプライズを受けて、彼女だけに伝わるように作っていたからです。
ホームルームの直前ぐらいには教師が受け取るように、一定以上の正義感を持っているクラスメートの机にもう一つのダミーの消しゴムを置いておきました。
当然、新しい情報が入ったので放課後に私たちは呼び出されました。
呼び出した教師は欠けていたピースがはまったかのような、いかにも満足した豚のような表情を浮かべていました。
先日の段階では、どちらかが嘘を付いて演技をしているという事しか考え辛く、その結論があまり腑に落ちていなかったのでしょう。
だとすれば、彼に齎された新しいリアリティはとても魅力的なものだったに違いありません。
彼はすぐ私たちにダミーの消しゴムを見せました。
彼女はとても驚いた後に、私のメッセージに気付き非常に険しい顔つきになりました。
つまり、全てで三つも存在する類似した消しゴムは作られたもので、これは明確な悪意を持った攻撃だという事です。
全て私が誘導する方向に勢いよく進んでいくよう思われましたが、教師は急に立ち止まって新しく生まれた最も魅惑的なリアリティの真偽を検証し始めました。
彼がアカデミックで厳密な態度を急に思い出したからでしょうか?
その豹変が余りにも不自然に見えて、タイムスリップ系の物語で良くありがちな、いわゆる歴史の自己修正力のような超常的な力が働き始めたのではないかと不安になりました。
私たちの前でこのダミーの消しゴムがどういうルートで発見されたのかを調べ初め、今日の昼休みに突然発見されたという事実を共通認識として確認させました。
この新しく発見された消しゴムが昨日作られたものであるという可能性を捨てていないということを示すためです。
その上でダミーの消しゴムを見せられ、「この消しゴムが自分の物ではないと言い切れるか?」と聞かれました。
私が最も困惑したのはその質問にすぐ、彼女が「絶対に、絶対に違います。」と強く否定したことです。
勿論、彼女にとっては自明の理なのかもしれませんが、客観的な根拠に欠ける主張を強弁することが心証を良くしないということを理解していないということが分からないからだとは思えませんでした。
当然、処分していなかった三つめの消しゴムを今更教師に提示することが彼女にとって都合の良いほうに転ぶとも考えにくい筈です。
もしかするとダミーの消しゴムに形成の跡が付いている事に気づかれ、そのことへ先に触れられてしまったとしたら、そう考えるとどう答えるのが正解なのか分からなくなりました。
形成の跡が無いようにするという事には、最も細心の注意を払って気を付けていたことです。
それでも、不安は消えません。
考えれば考えるほど、もし的外れな指摘であったとしても、犯人であるならしない行為だと考えるに違いないとも思ったからです。
マジシャンが種明かしを渋るのはそのマジックの魔力を保持するためであり、犯罪者が己の手口を隠蔽するのは動物の防衛反応のような生理的なものだと考えられていると思います。
時に犯罪者は嘘を付かなくてもよい部分でも嘘を付いてしまい、そのせいで何らかの矛盾が生じて容疑者として浮上し捕まってしまうケースも珍しくありません。
頭の中で彼女が二回も発した絶対という枕詞が何度も反響し病的な心配性の症状が強くなっていきます。
究極的に楽観的な人間であればこれぐらいのことで強く狼狽えることはせず、彼女があまり考えずに弾みで出た何気ない表現だろうと、そう考えれば平静を保つことが出来たかもしれません。
そして、その時の私はそうであるべきでした。
長い沈黙は小賢しい策略を思案しているからでないかという疑いが、築き上げたリアリティを壊していたのです。
「すいません、どう答えれば信じてもらえるのか迷っていました。ここで黙ってしまうのは逆に疑わしい行為ですよね。私には断言しかねますが、おそらく私のものではないと思います。」
百点満点のリカバリーだとはとても言い難く、疑われていることに自ら触れた是非も判断することが出来かねますが何とか気持ちを前に向けることだけは出来たと思います。
嘘を突き通す為には別の皮を被る事に少しも躊躇してはいけず、そのことを肝に命じながら体現しているつもりでいたのは、全くの思い上がりだったと痛感しました。
牛は順繰りに八つの胃を通すことで草という大量の食物を消化させます。
異物を血肉に変えようと、そういう大変なことをしている訳ですから、一見過剰に見える工程の量も妥当なことです。
それに加えて牛は極めて合理的な理由から石を飲むことがあります。
石を食うことは草を食うことより、更に受け入れ難く辛いことのように思えますが、石は草を磨り潰し消化を助けるためのもので、血肉に変える必要は無く、ただ体内を通過させれば良いのです。
そういう訳で私も悪意という石を飲まねばならなかったのです。
一度飲み込んでしまえば、体は随分と楽になりました。
馬鹿馬鹿しいことだと思われてしまうかも、しれませんが蓄積していく、虚実の犯行による罪悪感という草を体内に留めておくことに耐えきれなくなったのです。
虚実の犯行というのは想像するよりも存外厄介なもので、何しろ体感としては確かに存在する被害者やその遺族が実際には存在しないのですから、どうやっても償うことが出来ず、罪の意識が薄れていくことが無いのです。
犯罪者が永遠に犯罪者だと呼ばれないための心構えは、犯罪者であるという絶対的事実をまずは受け入れる。
そしてその絶対的事実が明らかにならないという、現実の可能性を無機質な論理で最大化するように努めることだけが、今すべき唯一のことだと信じていました。
長い沈黙の末に答えたことで疑っていると教師に伝えられた時も、無理やり冷静にふるまおうとするのではなく、揺さぶりたいなら、揺さぶられて動揺している振りをしてやろうと考えられる余裕さえも出てきましたきました。
私のその反応を横目に教師は、女生徒の発した絶対という言葉の根拠を尋ねます。
「長く使っていた物なので、全体的に少しの違っていることが直感的にわかるんです。説明することは難しいですが。」というような余りに主観的な感想を話した。
余りに拍子抜けな、お粗末な主張にこんなものを恐れていたのかという虚無感にまで襲われました。
その程度の主張であれば絶対という表現を使うことは、絶対に望ましいことではありません。
絶対を裏付ける根拠の中身に強い期待をさせるだけさせて、主観的な感覚に基づいた無意味な証言を提出すれば期待を裏切って悪い印象を与えるのは自明である筈です。
急に目の前の敵がひどく下らないものに見えました。
もっとも、それは最初からただの少女だったのですが。
ですが、そのときの私にとって、少女という存在は的に向けて振り絞り放たれた矢のような性格を有しているものだと考えていたからです。
それは幼い頃に何度も繰り返して読み聞かされたある児童書の影響によるものでした。
物語のなかで少女は固有名を持たず、少女が身に着けていた被り物の名称から、赤頭巾という一般名詞で呼ばれています。
物語の概要は、少女が、祖母を丸呑みした人食い狼をやっつけるという勧善懲悪のお話です。
眠れる狼の腹を鋏で裂いて祖母を救出し、腹の穴に石を詰め込み川に沈めて殺すまで、全く淀みない鮮やかな手口で一瞬の躊躇いもありませんでした。
物語の中で最も印象的だったのは、最後に赤頭巾を外した少女が祖母と一緒にアップルパイを食べて笑っているシーンです。
その時、初めて後ろ姿しか描かれていなかった少女の顔が明らかにされました。
田舎町に住むおぼこい顔をした普通の少女が事件の直後にまるで何事もなかったかのような張り付いた笑顔でいるのが不気味だったからです。
赤頭巾という物語を駆動させるための人格のない機械そのものであるのと同時に、ただの少女でもあったのです。
これを見て少女という生き物は、人生という物語の中でも、いつでも着脱可能な人格の仮面を目的の為に付け替えて最適化できると心から信じていました。
しかし目の前にいる現実の少女は、畜生のように、主観的に受け取った情報から条件反射で感情を発露させているだけです。
仮面を付け替えるどころか、完全な感情の奴隷でケダモノのようでした。
しかし、これは決して見下しているということではありません。
繰り返す夢というたかが虚構によって、感情という現実の機能自体を放棄した私の方が、生物として劣っていると自覚してもいるのです。
極めて自覚的に、そして理性的判断に基づいて自ら石を飲んだということもそう信じたいという欲求から生まれた恣意的で無根拠な自己認識に過ぎないでしょう。
制御不可能な夢によって与えられた特性なのだからむしろ、寝ている間に腹を裂かれて石を詰められたという表現の方が正しいのかもしれません。
当然のことながら、少女の一方的な強弁が鵜吞みにされることはありませんでした。
中立的な立場を保持しつつも教師が最後に出した結論は、私が女生徒から消しゴムを盗んだというリアルより、勘違いから生まれた不慮の事故というリアリティでした。
教師は私を頭ごなしに窃盗犯だと決めつけたことにだけ謝罪し、女生徒にも同じようにするよう促します。
最後まで、頭を伏せて顔を決してこちらへ見せようとはしませんでしたが、怒りに満ちているのが分かり印象的でした。
なにも、私は下らない少女を打ち負かした自慢をするためにここまで長々と話していたのではありません。
私が強い称揚を受けた人生で一番の事件の話とも関わる、この少女と私の只ならぬ因縁がどのようにして初まったのかについて話しておく必要があったのです。
その前に私にとっては常に現実と並行的に存在する夢についても話しておく必要があります。
同じ痛みや苦しみによって感覚が摩耗していったということに加えて、現実でも石を飲んだのですから、肉体的、精神的にも開放され、もう夢の中でかつての行動をなぞり続ける必要は全くありません。
まずは、この手で殺した中年男性の死体を見に行ってやりました。
死体は腐乱していて酷い臭いがしたものの、何とか我慢して持ち物を漁ると、どうやら大手広告会社の一社員であることが分かった。
スマホのホーム画面には家族の写真が設定してあり、死体より一回り若い妻と子供二人の張り付いた笑顔が写っていました。
子供はまだどちらも幼く、兄は幼稚園の制服を着ていて妹はまだ赤子でベビーカーに乗せられています。
母親はいかにも育ちのよさそうな見た目で、記念撮影の瞬間にも赤子から目を離さぬよう、少し俯いてベビーカーの中を覗き込みながら微笑んでいました。
なんて胸糞の悪い夢なんだと憤慨し、怒りのままスマホを川に投げ捨てる。
そのまま川べりの道で夢から覚めるのを呆けながら待っていると、いつもの警官がきて真昼にも関わらずライトで私の顔を照らしました。
強い人工的な光が、瞼の薄い皮膚越しに伝わる柔い太陽の光に変わり、比較的穏やかな夢と代わり映えのない朝が訪れます。
その新しい日常を続けていた数日間に夢のある法則に気付きました。
殺人事件を起こした日から今日まで全く同じ時系列を繰り返しているわけではなく、夢が始まってほんの数秒間の行動だけ、明日の夢に反映されるということです。
勿論、この法則に全く気付かず過ごしていた訳ではありませんが、夢が始まってすぐに動き出すようになって強く実感するようになりました。
目覚めるのも橋の上では無く少しずつ移動していき、ついには毎日死体の前で目覚めるようになります。
死体を眺める習慣は、自分への戒めという意味ではなく急激に凡庸化していく生活へのささやかな抵抗で、むしろ恐ろしい程退屈になった人生へ刺激を与えてくれる唯一の救いでした。
一週間もたつと、死体に感じていた魅力は消え去り、むしろ辛気臭い顔や異臭が私を苛立たせるようになります。
全く変わり映えのない夢の終わり方にも、うんざりするほど退屈していたので、犯罪の隠蔽と精神衛生上の理由から死体を処理することを決めました。
現実世界の歴史の中で行われていた死体の処理においても、土葬、木葬、火葬、鳥葬などの共通点として人の形を残したまま置いておかず、視覚的に死を覆うことで、生きた人間が気持ちよく生活できるようになるということが重要だと思います。
それに、単なる精神が創り出した虚構だと仮定しても、その中に人間の様相を保持したままの死体があることで感情や気分に悪い影響を与えているという直感的な感覚が拭えませんでした。
仮想世界は一人の人間の脳が創り出しているもので、それほど膨大な情報量は保持しておらず、ほんの半径数百メートル程度の現実の世界を再現したものに過ぎないでしょう。
死体から目を背けることは、気休め程度の効果はあるでしょうが根本的な解決には繋がるものではありません。
確かな存在感を保持し続ける第二の世界に人間の様相を保持した死体が認識上に存在し続けるという事実から本当に逃れるためにも、死体の隠蔽は絶対に欠かせないピースの一つです。
それから、暫く川べりの道で目覚めるまで死体の解体をすることが日常になりました。
明日に成果が反映されるのは、ほんの数秒間の間だけなのですが、翌日の作業の効率化のためと、この作業を終えなければ何も進まないような気がして他のことをしようという気が起こらなかったからです。
その予感を最も強く感じたのは解体を始めた初日に顔をあの石で潰した時でした。
死体から客観的なリアリティが欠損し、作り物のように見えた瞬間に、嫌な憑き物が落ちたように気分が晴れやかになったのです。
今思えば顔を潰した時にあの石を使ったことが特に功を奏したのかもしれません。
世界に対して最初に抱いた違和感は、繰り返すという点ではなく、橋の上に置かれていたあの石でした。
石は世界が産まれた瞬間に存在し、事件や死体はその後に産まれています。
この仮想世界の最も根源的な因果は認識上において完全に消失していますが、石を視覚的に認識した瞬間は、世界の中で物語が進みだした遡行可能な範囲で最も根源的な因子であり、ただ現実を模倣した世界から独立した強い意味を見出す為に不可欠で象徴的な出来事でした。
責任を遡行可能な範囲の中で最も根源的であり、決してレプリカでない、紛れもないオリジナルの実在によって、罪の象徴を解体するという行為は、ミニマムという意味において合理的な美しささえ、感じさせます。
私の目的は、何らかの理由で身体に入り込んだ異物を取り除くということでした。
その目的が完全に達成される為には、罪を警官から隠匿することと、自分自身の認識からも事件自体を完全に闇に葬ることが、必要な気がしてならないのです。
そして、そんなことは結局君の精神が創り出したものに過ぎず、恣意的な意志の力によっていくらでも都合の良い方向に展開できる空想上の物語ではないのかと感じてしまうでしょう。
しかし、この世界は純然たる無意識が創り出したもので
あり、それは期せずして熱された火鉢に触れた時の反射と同じく、思弁するより前に行為(世界)は現れてしまっているものなのです。
都合の良い展開は何一つとして起こらず、二年と七か月間、毎日欠かさず死体の解体を行い、ようやく処理し終えることが出来ました。
しかし予想通り、警官は死体の発見の有無に関わらず、事件の発生と犯人を特定して私を捕まえるので、夢の終わり方の変化はありません。
全てが脳の無意識下で作られているとするなら、私の方が警官よりも世界の理解度が高いという予想は、希望的観測でしかなく、もしそうなら恣意的で都合の良い設定に過ぎず与えられた試練がこれ程までの困難を強いられるものでは無かったでしょう。
そして、その事実は私に何らの絶望も与えませんでした。
呆れるほど繰り返した死体を解体する日々の中で、思い起こされた、世界が三つに分裂したごく短いあの期間の中から解決法を見出せたと確信していたからです。
私はまず、数か月かけて、血まみれの石と汚れた服を川で念入りに洗いました。
そして洗い終えた後、何日もかけてゆっくり、石を持って橋の上に戻ります。
「解決法が間違っていたらどうしよう……」という恐怖が、歩みを緩める要因になったのではありません。
むしろこの世界が特別な意味を持つことがこれで本当に最期だと少し感傷に浸る時間が欲しかったのです。
行動が明日に反映されない時間は、いつも道路を眺め続けるようになりました。
世界を情報ではなく、肉感を持った実体として過ごしてみたかったからです。
よく見ると車や人は常に橋の上を過ぎ去っていき、休むことなく景色は変化し続け、それほど退屈にも感じないまま飽きることなく見続けることが出来ました。
しかし、やはりそれを変化だと捉えてしまうのは世界に対する認識を視野の範囲内に狭めたことによって生じる認知の歪みなのでしかありません。
目の前を通り過ぎるすべてのオブジェクトが視界に入った瞬間から生成されたものではなく、より引いた視点で見れば、その前から一定の速度で走ってきた延長上の行動でしかないという事実があり、むしろ急に全ての動きが止まった瞬間こそが変化と呼ばれるべきものです。
それを疑うことは最も根幹の部分で信じられていた物理法則という普遍性を否定することであり、無意義で病質的な懐疑でしかないでしょう。
一つ一つの世界は、再生された一つのフィルムでありながら、一旦停止や巻き戻しはできません。
現実世界のなかに途中で急に差し替えられたC級ホラーの仮想世界から抜け出す為には、新しい物語で焼き直せば良いのです。
私は綺麗になった服と石を身につけて橋の上に戻り、夢が初まった最初の瞬間を出来うる限り再現しようとしました。
そしてそのまま橋の上で新しい世界を想像しながら、眠りに就きます。
半年ほどの期間、進捗状況すら全くわからない中であっても、絶望感や少しの焦燥感さえ感じないまま試行し続けることが出来たのは石を飲んだということではありません。
新しい世界に対する認知の解像度を高めて行ければ必ず成功する方法だという極めて主観的な予兆が、繰り返すたびに強まっていったからです。
望んでいた焼き直しの世界が実現したことに気付いたのは、警官のライトに照らされることなく目覚めることが出来た時でした。
その日は極めて自然な形でいつの間にか夢から現実にフェードアウトし、朝日が昇る前の早い時間にも関わらず、少しの陰りもない素晴らしい朝を迎えることが出来たのです。
仮想世界が恣意的に時間を遡行した複製を許容したので、私の罰と、見知らぬ男の血液は、無限に希釈され水より薄いものになりました。
夢の話に決着が付いて、ようやく、私が人生で大勢の人間から強い称揚を受けた話と少女との因縁の結末について話すことが出来ます。
それは私が中学二年生の時に受けた倫理の授業で起こりました。
その授業で教師が私たちに課した問いは、パスカルが数百万字の過程を経て導き出した一行の帰結を軽薄に本質として抜き出し、それに代わる現代的な帰結を20分で考え、発表させるという冒涜的なものです。
その帰結というのはあの有名な、人間は考える葦であるという文言です。
葦という小さな植物をメタファーとして使うことで人間一人一人が厳しい自然界の中でどれほど、ちっぽけで弱い存在であるのかを表現し、それでも思弁することが出来る人間は素晴らしいのだと考えることの重要性と尊さを説いたものでした。
クラスメイト達は浅い人生経験の中から、誰もがどこかで聞き齧ったことのある凡庸な意見を思い出して、それを自分で考えたかのように自慢気に披露し合います。
彼等の芝居がかった戯言からは、リアリティが余りにも欠如しているために、言葉の中から少しの背景も感じることが出来ません。
全ての声は聞き取ることが出来るもので、意味についてもある程度納得のできるものでしたが、口々に喚き立てる上、一人一人の意見が似たり寄ったりの綺麗事でそれぞれを識別できないために畜生の鳴き声のようでした。
ですから、その有象無象たちの中で私は確かに際立ったものを捻り出したと思います。
なにしろ彼らが阿呆のように眠っている間も現実を忠実に模した世界の中で殺人や逃亡、死体処理を繰り返す日々を送り、問いを立てた教師すら想像もつかない経験を越えているという点で明確なアドバンテージもありました。
つまり、人生の厚みからまるきり違っているのです。
その帰結は、人間は考える投石器(カタパルト)であるというものでした。
凡百なクラスメイト達は履き違えたアイデンティティを持ち出し、原作を無視した回答が多く見受けられましたが、私はあえて考えるという部分をリスペクトして残し、葦というメタファーを生物から原始的な人工物の武器に変更するだけに留めたのです。
恵まれた経験によるきっかけから、他の生徒よりは幾らか文学的、哲学的素養に恵まれていたので、そのメタファーに幾つかの意味を込めました。
まずは、生物でなく人工物を人間のメタファーにしたことです。
普段の生活や思想に至るまで歴史という大量の他人によって築き上げられたものからあらゆるバイアスをかけられ、社会の中でも大きな文脈の中の物語によって個人の意思が持つ意味は究極的に矮小化されています。
現代の人間は普段想像さえしてなかった画期的な新商品の発表を見て、突然喉から手が出る程欲しがってしまうことや、人間がアルゴリズムを構築するのと同じく、アルゴリズムも人間の欲望の形を構築していることから、物と人の主従関係が逆転しているのではないかという意味を込めました。
そして次は原始的な武器でというメタファーを用いたのかについてです。
物語の中で人は、生存競争という原始的なものに加えて、更に沢山の苛烈な競争を強いられます。
そして競争といいうものの性質上、誰もが勝者たらんとして他の個体を敗者に貶めようとすることから、その社会の中のルールに則って行動すれば誰も加害することな生活することは全く不可能なことです。
勿論、私は原始的な生存競争の方がより残酷的で、現代の様々な競争があって、色々な尺度で個人が評価される社会の方が平等で優しいものだとも思います。
しかし、国家間のネゴシエーションでは軍事大国が強い影響力を持ってしまうという点では、更に強者と弱者の間で格差の広がりが増していくことから抑圧や反発が多発し、加害しあう構造になってしまうということもまた事実です。
その加害性が一方は急激に改善され、もう一方ではより原始的な野蛮さが酷くなっているというアンバランスな様相を表すために原始的な武器という強い直接的なメタファーを用いました。
最後は具体的に投石器という種類の武器をメタファーに選んだことです。
これに関して言えば、ごく個人的な経験の中で、人に石を投げて殺めたことが大きく関与しています。
しかし勿論、投石機という武器の特性こそがメタファーとして最も重要な意味を持つ部分になっているのです。
ここで求められているメタファーは、より人間に近しいものを提示するのではなく、クリティカルな部分を浮き上がらせて自明のものにするということです。
アルゴリズムに支配された社会の中で人間の肉体は単なる情報の器でしかありません。
ですが、その器の中に情報が入っていると分かるのはその器自身が人生の中で一度も吐き出さない訳にはいかないからです。
さらに排泄、射精、排卵、言葉に至るまで、人は、あらゆる全てを吐き出さずにはいられないでしょう。
そして器の中にある程度溜めて、解き放つという構造は、原始的な戦地で使われた投石機と全く同じものです。
この吐き出すという意味のメタファーが考えるという言葉と連立させるに相応しいのは、吐き出すという特性を自覚することで考えるという意識も高まる効果があると睨んだからでした。
考え直しても、個人が個人の自我を保ち難い時代で、右から左に無自覚のまま考えなしに石を投じてしまい、誰かを傷つけたり、傷つけられたりする事で、心に一生の傷を負ってしまう、という問題意識は素晴らしいものだったと思います。
これらを総じた発表はまず初めに冒涜的な設問を立てた倫理の教職員に喜ばれました。
彼の思い違いから生まれたナルシズムとサイコパシー(人でなし性)の高さが人を武器に喩える露悪的な回答を気に入らせたのでしょう。
有象無象の畜生たちは、愛や自由の鳴き声を喚き散らした舌の根も乾かぬ内に、その場で最も権力を持った人間が賛同したのを見て、簡単に蹄を返しました。
パチパチパチ……パチパチパチパチ……
一音一音が競い合うように私こそが最も鋭敏な感性を持っている素晴らしい人間なのだと叫んでいました。
形成に形成を重ねた脂ぎった虚栄心同士が助長し合い、永遠に上昇していく様な気分が共有され、一斉に恍惚とした表情を浮かべます。
それは単調で気が遠くなるほど退屈なねっとりとした、長い、長い拍手でした。
もっとも、それは感覚的な話で、実際にはごく数秒程の非常に短い時間だったのでしょうが。
彼らは権力者が言うなら撮影した交通安全のビデオさえ何の疑いも持たず、嬉々としてカンヌに出品してしまうでしょう。
そもそも考えるべきだという意見に対する、考えなしの賞賛は失望しか生みません。
フェラチオの利便性の為にすべての歯を抜いてしまい、それでも口を大きく開けて笑顔は絶やしませんという精神性の人間たちに取り囲まれていることが嫌で堪りませんでした。
彼らには「歯のない女」というC級ホラー映画を自主制作することに青春を費やすことを強く勧めたいと思います。
授業が終わった頃、あの因縁のある少女から呼び出しを受けました。
もっとも、その時の私はその因縁、その少女についてのことも殆ど失念していたので、この呼び出しは先ほどの発表で私にインテリジェンスを感じた見知らぬ少女からの愛の告白であるに違いないと、そう信じて疑いませんでした。
指定された空き教室に入ると、机の上に座っていました。
冷ややかな目線が、剝き出しの軽蔑をはっきりと表していることから告白で無いことだけは、はっきりと分かりました。
彼女はゆったりとした口調で私に問いかけてきた。
「まず、貴方の発表は社会的に反していて、とても褒められたものじゃない、という自覚はある?」と。
私は彼女が考えるという言葉に連立させる物を人間から人工物のメタファーに替えたことが、人間を空洞化させて、考えるという行為に無意義な印象を与えると感じて怒っているのだと思いました。
「考えることが重要だと言う為には、まず考えるという行為について考え、無条件で素晴らしいものだというバイアスについても考え直すことをしなけりゃ、その主張の信頼性を貶めてしまうことになるので、必要なプロセスだろ。」と真正面から回答します。
彼女は溜息をついて「私が言っているのはそういう事じゃない。貴方は他人に対して個人としてではなく、役職や大まかな性質で括ってメタファー化して接し、自分自身すらメタファーでしかないと思ってる。そうなんでしょ?」といいました。
私は、その問いに対して答えることが出来ずにただ黙ってしまいます。
「貴方は自分が空っぽで虚しい人間だからって、周りもそういう気分になって欲しいだけ。負の側面だけをいたずらに誇張して、悲観的ニヒリズムって言うんだっけ?非生産的で愚かな意見でしょ。」と続けた。
「より生産的なものが良いなんて、社会の文脈上のものに過ぎないだろ。」
「非生産的なものを批判しただけで、より生産的であれば良いなんて言ってない。やっぱり、頭も悪いんだ。クリエイターぶってるけど、ただ基からある言葉を言い換えただけ。すっかり、鼻からスイカをひり出した後みたいな顔をしているけど、貴方に産みの苦しみを語る資格はないから。気持ち悪いよ、鏡で見てきたら?」
「それは、ごめん。でもあらゆる物をメタファーに捉えているらしい僕からすると、鼻からスイカを出した後の顔っていうメタファーは頂けないなぁ。絵面が児童書みたいで余りにも馬鹿馬鹿しいよ。尿道からプチトマトを出した後の顔なんて言うのは、どうかな?何よりアダルティックだし、出産の同様の痛みだと噂されている尿路結石の手術ともかかってるんだ。」
「私は貴方のカウンセラーじゃないし、くだらない話を何時までも聞く義務は無い。貴方がクラスの癌だってことが分かってくれたなら、もう用は済んだから。後、そのメタファーは必死に頭を捻って考えたの?ええ、そうなんだ。ああ、水分を取ってなくて良かった。もしそうなら、ショックで失禁してたかも。これはアダルティック?」
「君は結局、人間は努力すれば誰でも善くあれる、みたいな綺麗事を書いてほしかったって訳?そんな薄ら寒いことはごめんだね。真性という要素を、重視してるんだ。」
「今度はリアリスト気取り?」
「そうだね、ここでいうRIALは、リアリティのことだけど。仮性包茎は、剝けそうにないのに剝けるからFAKEなんだ。因みにこれがアダルティックだよ。」
「下らないこと何時までも聞いてるほどいい加減暇じゃないから。厭世観みたいなのに浸って、せいぜい無駄な人生を好きなだけ過ごしてよ。でもそれは、死体の論理に過ぎないし、本当に生きてる人間は貴方の腐臭にみんなが顔を顰めるだろうね。」彼女は捨て台詞を吐いて立ち去ろうとした。
「待てよ、話はまだ終わってないだろ。」と一応言葉では呼び止めたものの、もし彼女が私にもう一度向き合って話を聞こうとしても、言うべきことは何一つなかった。
もっとも、彼女にそんなつもりはなく、振り返ることもなく颯爽と去っていったのだが。
「ハッ、骨のない皮肉屋なんてゲロの詰まった革靴と同じじゃないか。」無人の教室でやっと思いついた言葉が虚しく反響して一層私を惨めにさせる。
余りにも最悪な気分になったので、残りの授業を受けるということはせずに、早退することにした。
とは言っても、家の中でこの酷い憂鬱を抱え込む気にはなれず、当てもなくただ歩き回って束の間の現実逃避をする。
すると今まで、なんとなく意識的に避けていた夢の犯行現場の橋の上に来ていた。
おそらく、それは偶然ではなく、無意識のうちにあった一種の破滅願望のような物のせいでしょう。
この時も夢と同じく、蒸し殺されそうな暑さの中で、真昼の激しい陽気が開けた橋の上に照り付け、何処にも逃げ場が無い気分になる。
一度でもそういう気分になると、肥大した自意識がそれを目ざとく発見して、増幅していく。
橋の中腹をなんとか越え、終盤に差し掛かった時にまた夢と同じように石が落ちているのが目に入った。
どういう訳かその時は、今度こそ救ってくれるに違いないと考え、その石にさえも縋りついていつの間にか、両手に抱き抱えていた。
肥大化した自意識が薄れていき、恋焦がれていたノスタルジアにようやく帰ることができたような安心感に包まれる。
石が本当に愛しくなり、頬ずりをして強く抱きしめた後、気まぐれに任せて、そのまま橋の上から落としてやった。
指先から石が離れた瞬間に大量の羽虫が頭の上から落ちて顔を覆い込んで全身に悪寒が走る。
聞いたことのある鈍い音がして、下にある川べりの道を見ると女が倒れていました。
陽光に照らされて少し白みがかったアスファルトを伝う血液が、風ではだけた病衣から覗く切り傷だらけの手首が、余りにも浮世離れしていて現実のものだと思えなくなる。
逃れようのない手の中に残った感触のリアリティに、打ちのめされ、膝から崩れ落ち動けなくなった。
そこから直ぐに最寄りの署から警官がきて、私を乱暴に押し倒して手錠をかけてパトカーに押し込める。
それでも、一向に目覚めることはなく、一抹の希望さえ完全に消えさり、本当に現実のことだと分かった。
罪悪感は無く、ただ虚しさだけに苛まれたのはこれが逃れようのない運命のような気がしたからです。
警官に連れられている間は、ずっと脳の中に異物感があって、それを出すために頭を振りつづけていた。
よく分からないまま移動が続き、正気を取り戻すと、いつの間にか取調室の中に入れられて座っているのです。
目の前の警官が最初に話したのは、私が犯した罪はこの一件だけでは無いんじゃないか、という事でした。
勿論、記憶の中で実際に罪を犯したのは初めてのことな筈です。
にも関わらず、その警官は三件もの犯行を私に自白させようとしました。
「君はね、つまりドーナツの穴なんだ。便宜上の為に存在するってことにしてもいいし、全く存在しないってことにも出来る。だから、いい加減空っぽな自分に、無意味なプライドを持たせるのを辞めなさい。」
「ペシミストはドーナツの穴を見て、オプティミストはドーナツを見るって言葉があるだろ。ここでいう楽観主義は、当たり前のことを当たり前に受け入れるってことで、悲観主義は当たり前を疑う姿勢を忘れないんだ。つまり、より思慮深いんだよ。」
「じゃあ、ドーナツの穴について何か有意義な結論は出せたのか?その、随分ご自慢の思慮深さって奴で。」
「当たり前だろ、もっともそれを聞いて、有意義なものに出来るかどうかは君次第だけどね。」
「じゃあ、今すぐご高説願えるかな?」
「まず、人は認知の中で、本当に全く存在しないものについては、考えることすらできない筈なんだよ。もしそれが無意識的な願望や錯視、偏倚が創り出した幻想だったとして、その願望や、また錯視による錯覚、ある程度の普遍性を持つ陥りやすい思考の癖、という紛れもない”事実”から、”生じるもの”な訳で、全く無存在だという言説こそが正しくない認識だよ。君たちは不可解なものに畏怖して、存在自体を拒絶してしまうんだ。分かりえないものについては、分からないままにして置いておくという思慮深さが足りてない故にね。」
「君は便宜上の為にという言葉を知らないのか?そんなものは統計的計上で無視されるのが当然な、個人的なものだろう。」
「あなた達の中で罪を犯したことの無いものだけが石を投げなさい。これを聞いてどれだけの人が石を投げることが出来るだろう、罪という偏倚がどれだけ普遍的なものなのか、よく知ることだね。それを全く無視した統計的真実なんて、とても信仰には値しないよ。」
「その言葉を吐いてるのがキリストだったら、どんなに響いた事だろうね。君は自分自身が無差別殺人という重い罪を犯した咎人だということを、すっかり忘れているんじゃないか?」
「いいや、よく知ってるつもりだよ。誰よりもね。」
「君は世界をあるがままに見ることへ反発することに快楽を覚える、病質的な思考の癖って奴があるんだ。そしてその病理さえも、決して貫けはしない。最期には最も人生で大切にしていたものを平気で踏みつけ冒涜することになるんだ。誰にとっても少しの意義すらも見出すことの無い、ただ哀れな存在として一生を終えること、それだけがお似合いで、君自身ですらも、それ以外の未来を見出すことが出来ないんだろ?安心しなよ、その直感は当たってる。絶対に運命は君を逃がしやしない。」
「大予言者ここにあり!ってか?その予言の根拠には、一体どんなに立派な裏付けがあるのか、詳しく聞かせてくれよ。」
「そんなに興奮して身を案じる必要はない。君が何人殺したことになろうが死刑になることも、懲役すらないよ。だって現実と夢の区別すらつかない精神障害を患っていたそうじゃないか。いいとこ責任能力無しで、病院送りが関の山だろ?さっさと罪を認めた方がお互いに、不快な会話を続けなくて済むと思わないのか?」
「聞き捨てならないなあ。やった覚えの無い罪まで認めてしまったら真犯人が野放しだ。その後、真犯人が事件を犯してお前らのミスが露呈されたらどうなる?罪を認めないのは善意だよ。」
「無差別殺人を犯した奴が何を言ったところで大した問題にはならない。誰も信用しない、当たり前にな。犯人が誰だったかなんて、本当のことを言うと、どうでもいいんだよ。長い間、通行量も少なくない道で特定の個人を待ち構えていたとするなら、目撃情報の1つや2つあって然るべきだろ?今回スムーズに捕まえることが出来たのは、お前が犯行をした後に座り込んでいたからだ。ということは、まだ犯人が確定していない二件の事件も、すべてが同じ手口で、すべてが無差別で衝動的なものって訳だ。小さい町の中に、それも非常に似たタイプの頭のおかしい奴が二人以上いるってのは凄い偶然だな。」
「陳腐な言葉だけど、殺すつもりはなかった。本当さ、だって動機がない。それでも、然るべき罰を受ける覚悟だってある。」
「その必要はない、お前の結末は決まってる。大衆ってのは行動に対して合理的な理由ってやつを求めるもんさ。もっと人ってのは情緒的なもので、殆どの行動理由って奴は、後から尤もらしい理由をえっさほいさで、こさえたに過ぎないとは、思うけどな。でも世間は納得感のある合理的な理由を求めるんだ。普通の人間がただ社会の不満や一過性の感情だけで罪を犯したということが事実であったとしても、重い精神障害を患って、意識さえも危うい人間が錯乱状態に陥って犯した事故って方がリアルに感じるだろ。」
「話が見えないな。本当のところ、全ての犯行が私によるものだと思ってるのか?」
「当たり前だろ。それが合理的な統計的真実ってやつさ。異常者なんだよお前は、十年前に起こった一件目の犯行については、夢の中でやったかもしれないってほざいてたじゃねえか。どうせ二件目も意識飛ばして昏倒しながらやったから、覚えてねえんだよ。」
「結局、お前も見下してた大衆と全く同じなんだよ。いちいち行動の結果について恣意的なものに過ぎない合理的理由ってのを求めたがる、哀れな凡人なんだよ。どこまでも凡庸な自分にコンプレックスがあったか?お前は結局俺に憧れてたんだよ。だから意味のないおしゃべりに興じたんだろ、楽しかったか?カンガルーの袋が膨らんでいるのを見て、中に子カンガルーが入ってると独り合点して、挙句の果てには勝手に期待して、実際には大量の避妊具が入って脹れていただけだと分かったら、吠え面かいて逆上するんだよ。頭のいい奴なら、すぐに大量の避妊具と子供がいないという事実に対する相関を発見して、疑問さえも湧かないんだよ。このウスノロ。」
「おお、やっと正体表したなこの異常者。ちゃんと調書には、錯乱状態の為に会話不能だって書いてやるからな。毎晩寝る前は、十字切って感謝すんのを忘れんなよ。糞ガキ。」
そう言うと、警官は取調室から出ていき、その後、すぐに私も拘置所に連れられます。
確定した罪に対する量刑と余罪を追及する裁判までの期間は、アイツの思い通りにさせてなるものかと復讐の方法だけが頭を巡っていました。
彼の主張は、結局私が病者であるから、何人殺そうとも罪には、問えないというものです。
この発想は、おそらく彼はかつて憧れていた異常者である私に、ただの凡人でしかない彼自身が、満足な責任すら問えない人間だというレッテルを貼り付け、社会的な個人としての地位を奪うことによって、私を侮辱し貶め、勝利感を得ることでコンプレックスから解放されようと思っているに違いありません。
正常さとは、つまり凡庸さという事であらゆる柵にとらわれる事です。
異常さとは、つまり非凡であることで、自己が内宇宙にある37兆個の細胞の生殺与奪を司る絶対的な存在になることです。
いつでも強い意志によって、外界と断絶し、思考する際にはあらゆる不純物を排除した純然たる自我によって、本当の意味で自律するのです。
そういう意味で、確かに異常者であることは疑いようのない事実であっても、凡人よりも圧倒的に、責任というものに対して自覚的に過ごしながら生き、苦しんできた人間に、責任能力が存在しないとはどういうことなのでしょうか。
私の持つ異常さとは、決して、生きていく中の障害ではなく、アイデンティティであり、私そのものでした。
つまり、凡人の証言と弁護によって、全てが覆されることなど絶対にあってはならないのです。
弁護人は黙秘するよう求めましたが、当然、拒否しました。
私が専ら望んでいるのは減罪ではなく、罪に相当する適切な処罰つまり、死刑判決を受けることだけなのですから。
こんなことを言うと、それこそ自暴自棄だとか、閉塞感が引き起こすメランコリックや行き過ぎた自己演出が創り出すヒロイックな妄想によって、存在しない再帰性を虚構と知りつつも、自らの手首で観測することを生きがいとする、通俗的な言い方で言うと、所謂メンヘラのような類の者とは全く種類が異なっているものでした。
私は、通り過ぎるだけの世界を真正面から捉え、私だけの世界で私だけの尊厳を守るために闘わなければいけなかったのです。
尊厳ある死を望む主張が、結果的に最も死刑に近づくことができる方法で無かったとしても、それに対する批判は的外れなものでしかありません。
私にとって、自己を偽るという行為は、文字通り全てを否定する事になるのです。
そもそも勝てば官軍、負ければ賊軍という主張が、恥ずかしげもなく言えるのは、自我が無く、個人としての人格が成熟しきっていないからです。
重要なのは勝利では無く、意味であり、勝利とは意味の再確認をするための行為でしかありません。
まあ、実際の裁判では、闘う事さえ許されなかったのですが。
まず最初に、中立の立場である精神科医が、正式な診断書を出しました。
内容としては、私に重度のパラノイアと意識障害があり、あらゆる証言が当てにすることが出来ないというもので、どんな事を話そうが、まともに取り合われなくなったのです。
そして、裁判官も私にとって最悪の人選でした。
彼は、精神の病に対して無知であるのにも関わらず、人一倍の理解を示そうとするような、生粋の偽善者だったからです。
てんで的外れな優しさで、こちらが話すたびに憐れむような目を向け、不安にならないよう、深くうなずきながら傾聴し、肝心の主張の内容についても無理繰り、好意的な解釈をしてくるのです。
せめてもの救いは、傍聴席に吐き違えた正義感を持ち込んだ大衆が詰め寄せ、私が何の反省の様子も見せないことに、穿った解釈をせず、真正面から憎しみを抱き、汚い野次を飛ばしてくれたことです。
その野次も結局は、裁判官が無機質で儀礼的な発言によって諫めて、ただ庇護されるべき弱い存在として扱われてしまったのですが。
彼は、中立的な立場を保持し、世論の流れに流されない我こそが法の番人であるという気取りが全面に溢れ出た厳めしい顔つきで、私に責任能力無しという実質的な無罪判決を宣告しました。
その時の威圧的な木槌の音が今でも深いトラウマとして脳に刻み込まれ、頭の中で何度もフラッシュバックして精神を蝕みます。
しかし、まだ私は、敗北を認めていません。
他ならぬ、現在ご覧頂いているこの詳細で何の脚色もない記述によって、司法が誤った判断をしたと改めてくれると信じているからです。
そして、成熟した個人であるなら、他者に規定される司法の裁きを待たずとも、然るべき罰を自らに執行することが出来るのです。

追記 少女(笑)

人生というものは、トレードオフというか、本当に上手くできていますね。
消しゴムを盗難された上に謝罪までさせられたあの日、むしゃくしゃして、石を投げたら人を殺してしまいました。
同じ場所、同じ方法が選ばれたのは偶然ではなく、紛れもない、運命だったのです。
貴方が被るべき罪を自然に被るため。
最後に、全く皮肉では無いのですが、貴方なら、真正面から素直に受け取って頂けるでしょうか。
彼の人生の門出を本当に祝福しております。

ついでに、事実としての記述として、最後の数行に加えるべき情報を注釈しておきます。
彼は文章を書き終えた後、記述通りに、自らを罰するために落下死を選択しました。
しかし落下中、早々にその選択を後悔したのか、精神病院の外壁には何とか捕まるものを探して、必死に生き長らえようとした夥しい形跡があったというのも事実です。
つまり、彼が物語った中で最も価値を置いた、成熟した個人の証明としての潔い死というものは、実際にはそう綺麗なものにはなりませんでした。






































































































































































































































































































































































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