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【小説】グラディアトリクス #5
時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……まだ?」
待ちきれず、かすかに体を揺らすと、オノキが両手で頭をつかみ、正しい角度に直した。
イセマルが不平代わりにぎゅっと目をつぶる。
「動くな。……もう、すぐだ」
試合開始前の控室で、オノキがイセマルに化粧を施している。すでに1時間近く、あまりにもたいくつで、静かな時間が流れていた。
「この化粧は、汗では落ちにくいものだが、」
オノキの指は太く、節だらけで、爪も白く濁っているが、驚くほど繊細に動く。
まつげの一本一本に至るまで、妥協なく、彼の剣闘士を仕上げる。
「あまり擦ると崩れるからな、〈舞台〉を降りるまで触るなよ」
オノキが化粧を終えて、身体を傾けながら、いろいろな角度からできばえを確かめ、満足したようにうなずいた。
「これでいい」
合図で、イセマルは閉じていた目を開けた、鏡には、自分自身の目にも、きわめて魅力的に見える美しい少女が映っていた。
違和感と、不思議な照れくささを感じて、もぞもぞと前髪を軽く撫でた。
「気になるか?」
「……ううん、平気だ」
なんだかかしこまった気分になり、イセマルは嘆息し、両手を揃えてひざの上に乗せた。
「じゃあ、緊張してるか?」
「へんなかんじ」
イセマルは舌を出して顔をしかめた。
「服を着てるのに裸になってる気分だ」
「ああ、なるほど。……大丈夫、おまえならやれるさ」
オノキが、なぜかうれしそうに眼を細めるので、イセマルはむっとして、首のうしろに乗せられた手を、体を揺らして拒絶した。
「別に、励まされたかったわけじゃない」
「そうか? そりゃ失礼」
オノキはおどけて肩をすくめ、なおもうれしそうに笑った。
◆
満員の会場の中央に、イセマルは立った。
今までの試合とはまるで違う雰囲気に、手袋の下の掌がかすかに汗ばむのを感じた。
対戦相手が入場する。
ゆったりとした、不思議な音楽に合わせて、熱狂する観客に笑顔を振りまきながら、軽やかに進み出る。
〈舞台〉の中央で、両者が向き合った。
相手はかすかに微笑んで、じっとイセマルの眼を覗き込む。
思わず息を飲んだ。
心の中身まで覗かれてしまうような気がして、目をそらしそうになったが、どう考えてもそれは気圧されてるってやつだ。と思い直し、逆にまっすぐ見つめ返す。
エメラルドグリーンの涼やかな瞳は、吸い込まれそうなほど大きい。
心臓が、いままでにない速度で脈打った。
開始の鐘が鳴る。
彼はイセマルの緊張をほぐすようにゆっくりと立ち上がり、徐々にテンポを上げて行った。
ところが、序盤、イセマルのパンチが強く、相手の顎を捕らえた。
ように、客席からは見えただろう。
男の子がわずかによろめき、観客からはどよめきが上がった。
しかし、打った側には、ほとんど感触がない。当たった瞬間に首をひねって躱したのだ。
(当たったフリだ)
イセマルは、急激に血が冷えていくのを感じた。
結局、今日もいつもと同じなのか、と、落胆する自分に気づき。驚いた。
(こんなの茶番だ。分かっていたことだろうに)
相手の男の子は頭を振ってダメージがないことをアピールする。そしてすばやく反撃をする。
だが、さきほど一撃が影響して、初撃ほどの速さはない。
ように、見える。
(でも、動きが鈍ってる。偶然、いい場所に入ったのかもしれない)
冷たくなっていた血が、わずかに熱を持つ。思わずイセマルが半歩、前に出る。
その瞬間、相手のパンチが鼻っ面を引っ叩いた。
速さも鋭さも、すでに戻っている。
虚を突かれてイセマルの前進が止まる。二発目はかろうじて肩でブロックする。
鞭のようにしなる腕が、中った瞬間にスナップする。
派手な音のわりに、ほとんどダメージはない。
だが、小気味よい打撃音と同時に、イセマルの顔が大げさに跳ね上がると、観客たちは思わず前のめりになり、拳を突き出して声を上げた。
(ちぇっ、ぜんぜん、よゆうだ。騙された)
ダメージはないが、打たれてばかりではいられらない。
ガードを上げると、待ってましたと言わんばかりに低いキックが放たれた。
肉と肉がぶつかる音が会場に響き、最前列の婦人が思わず顔を覆う。
だが響いたのは、相手が自分の脚を叩いた音だ。と、常連の紳士が、訳知り顔で解説する。
みぞおちの下のあたりが、さらに熱くなっていくのを感じた。
「冷静になれ」と自分に言い聞かせたが、むだだった。
落ち着く暇などなく、次の一撃が飛んでくる。なんとか躱し、反撃する。躱される、こちらも躱す。
相手はもっと速度を上げる。イセマルがなんとかついていける速度、それでもまだ、余裕を残しているように見えた。
一撃一撃に観客が感嘆の息を漏らす。
熾烈な攻防、互角の闘いに見えるだろう。
しかしその実、イセマルには、打つタイミング、躱すタイミングさえ、誘導されているように感じられた。
(くそ)
と心の中で毒づいた。
(遊ばれてんだ。おれ)
イセマルは、やや強引に前進し、大ぶりのパンチで無理やり相手を下がらせた。
相手は驚く様子もなく、冷静に距離をとる。無理に打ち合いを続けようとはしない。
(しきり直し)
相手の攻め気がなくなったことにイセマルは気づく。そういった空気を感じ取るのが、彼は抜群にうまかった。
今日の相手は、試合をあっという間に終わらせたりはしない。互いに見せ場を、観客を盛り上げる『タメ』を作る。
客席からなら不自然に感じられないくらいの時間、けれど、対峙している自分には、はっきりとわかる。
正直、おもしろくはない。
「ふーっ」
イセマルは深く息を吐いた。
と同時に、ガードに上げていた両腕をだらりと下げた。
(決めた)
下げたまま、1歩、無造作に距離をつめた。
相手に一瞬だけ、とまどいの表情が浮かぶ。
(あんたのダンスには、つきあわない)
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