【小説】グラディアトリクス #6
次の瞬間には、相手がすばやく踏み込み、左のジャブを突いた。
イセマルはスウェイで躱す。しかし、それで終わりではない。
2発目、3発目、4発目。
基本に忠実な連打が、次々に襲い掛かってくる。
彼のパンチは鋭く、強い。
しかしイセマルには、当たらない。
すべて躱す。避けることだけに集中すれば可能だった。
彼は、ときどき、戦場であらゆるものがゆっくりに見える瞬間があって、今、その感覚を思い出していた。そういうときは、銃弾が発射される前に、射線から身をかわせるようにさえ感じられていた。
イセマルは、相手の動きをよく見るために、完全にガードを下げた。
人間の動きは多彩だが、銃弾よりは断然、おそい。
始動を見極めれば、躱す時間は十分にある。
やがて何人かの観客が、イセマルに反撃の気配さえないことに気づきだした。
当然、不満げなブーイングが上がり始める。
(知るか)
――やってやる。誰も期待してないやり方で勝ってやる。
――おれの方が強いってことを見せてやる。
イセマルは審判をちらりと見て、相手にだけ聞こえるように小声で言った。
「あんたも、本気出していいぞ」
〈舞台〉脇のオノキの顔が視界に入って、一瞬だけ胸がちくりと痛んだ。
オノキは腕組みをして何かうなるように言ったが、むやみに指示を叫ぶようなことはしなかった。
そのことが少しだけうれしかった。
イセマルが打たないからといって、相手は待ちに入るわけにはいかない。
逆に、観客を煽るように派手な技が増える。すると、イセマルにも余裕ができはじめる。
わざとぎりぎりでかわしてみせ、大げさに挑発する。
(おれを踊らせてみろ)
相手の攻めにも、バリエーションが出てくる。ムアイ・タイの蹴りがある、カラテの突きがある、カンフーのチョップがある。
イセマルはすべてを躱す。
(おれは、スコールの雨粒だって全部、よける)
互いの動作に、十重二十重のフェイントが混じりはじめる。
フェイク・タイミング・緩急・上下の打ち分け・前後・左右の距離・軌道・目線・表情・息づかい
イセマルはていねいに、1つ1つ処理をする。
シャッフル・ステップ・スウェイ・パリング・ブロッキング・ダッキング・クリンチ
ありとあらゆる攻めがあり、ありとあらゆる防御がある。
不平をあらわにしていた観客たちが徐々に、徐々に、凪いだように静まり始める。
――やれる。ここの面倒な流儀さえなければ、おれの速さも技も、負けてない。
イセマルは、いつの間にか相手の口の端がかすかに上がっているのを見とめた。
〈舞台〉ではよく、不利な側が強がりで笑うというが、これはそうではないと思った。
相手は、たぶん、楽しんでいる。イセマルの未知の技術に、驚きと喜びを感じはじめている。
(そうだといい。と思う)
相手の高いキックを上半身だけで躱す。
そこに、完璧なタイミングで対角線上の低いキックが、放たれる。重心を後ろに残したイセマルには避けようはずもない。
はずだった。
ばね仕掛けの機械のような速度で、イセマルの上体が跳ね上がった。
跳んだ。
跳躍して、躱した。
同時に、体をひねり、裏拳を撃つ。
蹴りを空振りして体勢を崩した相手に、この攻防で、初めてイセマルが攻めた。
虚を突かれた相手はかろうじて、頭を振ってかわす。不安定な姿勢から放たれた、鼻先をかするようなヒット。
ダメージらしいダメージはない。
イセマルは、汗だくになった相手の顔を、ふたたび真正面から見た。
驚愕の表情が、徐々に変わっていく。
今度こそ、見た。たしかに、笑った。
◆
いつしか、2人の「舞踊」に、客席は熱狂していた。
互いの隙をついて必殺の攻撃を出し合い、互いにそれをギリギリで躱す。
今日は「本気だ」と観客は確信した。
王者に、流儀を守らず噛みついた新参者がいた。
それが単なる未熟な反抗なら、会場はしらけっきていたところだろう。
しかし、イセマルは確かな強さを――『技術』と『知性』を見せた。
観客は思った。
今日の相手は本気だ。そして強い。
だけど、大丈夫。俺たちの王者はもっと強い。
今度はイセマルが攻める。目で追うほども叶わないほどの速度の連打。
〈プライズリング〉ではあまりない、頭部を狙った攻撃が襲い掛かる。
王者はそれをすべて躱す。先ほどのお返しと言わんばかりに。
観客は、分かり切っていることなのに、隣りの客にこう叫びたくてたまらなかった。
どうだ、強いぞ。
俺たちの大好きな剣闘士は、本当に強いぞ。と。
ほらみたことか。と、そう叫びたかった。
一方、直に向かい合うイセマルは、よりはっきりと感じていた。
――強い。
全力を出しても、相手の余力の底が見えない。
イセマルは、もはや相手を丸腰とは思っていない。
思わず咆えた。原人のように叫んだ。
去勢された闘争など、この場所にはなかった。
雄と、もう1匹の雄が、いるだけだ。
◆
攻防は続いていた。
だが、その趨勢は、もはや明らかだった。
目の肥えた観客たちが、鋭敏にそれを感じ取り始める。
音楽に合わせて、床を踏み鳴らす。
打撃に合わせて、手拍子を撃つ。
2人と共に踊るように、会場全体がうねった。
半拍にも満たない、わずかな時間、イセマルだけがそれに遅れる。
打撃をガードするたび、全身から玉のように浮き出た汗がはじけ飛ぶ。
疲弊していた。
速度も、技も、大きな差はなかった。けれど体力の差は、歴然だった。
すばやい左の連打。こちらの状態を試すようなパンチだった。
数発、それがもろにヒットする。
そこで、相手がイセマルだけにわかるように、こっそりウィンクをした。
それがクライマックスに向けた合図だとわかり、イセマルはたしかに落胆した。
(おれはまだできる)
そう思った。へとへとだったが、気力だけはかつてないほど漲っていた。
遮二無二反撃に転じるが、相手は攻め気を散らすように、軽やかな動きでそれをいなす。
(勝ちたくなったらだめ。闘いたくなったらだめよ)
相手の左が、イセマルの鼻面をぴしゃりと捉える。
聞き分けのない子どもを叱るような、厳しい一撃だった。
いつしか2人は、言葉にせずとも、それだけで意思疎通できた。
(おれは、本気であんたに勝ちたいんだ)
(だめ。それはここの流儀じゃない)
だだをこねるように腕を振り回し、そのすべてに、見事なカウンターを合わせられる。
よろめいたころに畳みかけの連打、有無を言わせぬ圧力に、〈舞台〉の端を回るようにして逃れるしかない。
(だから、2人で。ね?)
拗ねて出足が鈍るパートナーを促すように、今度はやさしく、相手の男の娘が問いかけた。
イセマルの拙い反撃を、本当に寸前で躱し、最後まで観客の気を休めさせない。
(できる?)
男の娘がこっちを見た。
不思議なことに、イセマルはその顔を見て、まるで母親のようだ。と思った。
(うん)
そして、目線とかすかな頷きで答えた。
(おれも、できる)
イセマルはかつてない充足感に戸惑った。2人の間には言葉はなく、しかしたしかな対話があった。
下げていた腕を、あくまで自然な動作で上げる。
そして待つ、クライマックスにふさわしい一撃を。
今度は相手が跳んだ。跳躍して、蹴った。
構えた腕の上から、ハンマーで叩かれたような衝撃があった。
この日初めて完璧にとらえた一撃。
イセマルは躱せない。
躱さなかった。
代わりに、重心を後ろに倒しながら、しなやかな猫のように身をひねり、衝撃を逃がす。
それでも、ダメージを消しきれない。予定よりもはるかに大きく吹っ飛んで、マットに叩きつけられた。
一瞬、意識が手放される。
◆
リングサイドで、オノキが慌てた様子で何かを喚いているのがちらりと見えた。
(よかった)
イセマルは倒れこみながら思った。
オノキの眼をごまかせたならば、会場の全員を騙せたということだろう。
◆
疲れ果てていた。両腕が鉛のように重く、持ち上げるのもきつかった。
相手は、汗こそかいているが、表情にはまだ幾分かの余裕がある。
(おれの敗けだ。次は立てない)
ダウンしてから、30秒間の猶予がある。
イセマルはゆっくり時間をかけて立ち上がってもよかった。
しかし、彼は膝を震わせながら、すぐさま立ち上がろうとして、1度よろめいて倒れた。
1、2、3、
――8秒だ。8秒で立とう。
動けるようになるまで回復して、お客が冷めない、ぎりぎりの時間。
――なにもかもぶち壊してしまおうとして、戦った。
だが、全力で戦った。相手の予想も、観客の予想も、オノキの予想も超えて。
――それでも、力が足りずに、敗けた。
ついには、観客を喜ばせるためにわざと倒れた。
4、5、6、
「立て、立て」
客席の紳士が、ステッキを折れんばかりに握りしめて思わず漏らした。
声援が聞こえてくる。
いつしか、イセマルの勝利を望む人たちがいた。
無力感があった。心地よく、すがすがしささえ感じてしまうような、ひどい無力感があった。
立ち上がる。
7、
構えをとる。
8。
もう一度、相手の顔を見る。目が合った瞬間、何かを察したようにほほ笑んだ。
「疲れた?」
たしかに、声が聞こえた。
驚いて、イセマルは目線をあたりにさ迷わせて、また目の前の男の娘に戻した。
口には出していない。でも、はっきりと、何を言っているのかがわかる。
とまどう間もなく、再開の鐘が鳴る。
「つかれたよ」
イセマルも、言葉ではなく、拳で答える。
相手も、それが聞こえたように、密やかな笑みを浮かべる。
「でも、楽しかった」
「楽しい?」
打つ、跳ねる、受ける、蹴る、躱す、
最後の一仕事と言わんばかりの応酬がある。
イセマルの動きは、鋭さを取り戻したように見える。
だがそれは、残されたわずかな力だ。観客も、そのことを分かっている。
だから、クライマックスを確信して一層の歓声が上がる。
「<舞台>に上がる前、ここにはまねごとしかないと思っていた」
短い、一瞬の視線の交わりの中に、穏やかにゆっくり流れる対話の時間がある。
「でも違った。『正当さ』があった。男と男の『正当さ』が」
イセマルはそれを噛みしめるように、強く、拳を握った。
「おれはその中にいた。それが、はじめてで、うれしかった」
「うん」
男の娘がとびきり魅力的に笑った。やさしさと、凛々しさと、いたずらっぽさが同居した顔だった。
「楽しいね」
男の娘がまた1つ、テンポを上げた。速度は最高潮を迎え、イセマルはもう、ついていくのがやっとだった。
ほとんど反射だけで、肉体をコントロールする。
力を振り絞り、イセマルはそのときを待った。
そして、一拍の間があった。2人は呼吸を合わせるようにして、慎重に距離を測った。
注意深く、間違いは許されない。
「はじめての子に、ほんとうはここまではしない。きみは落胆するのかも」
先に動いたのは相手だった。
イセマルははっとした。相手の意図を理解して、困惑した。
「でも、きみを気に入ったから」
男の娘の肩がぴくりと動いて、ごく自然な動きでかすかにガードが下げられる。
それが合図になった。
「おいで」
肉体は反射する。
あらかじめそう決められていたかのように、イセマルは蹴った。
「最後に、勝ち方も教えてあげる」
その場の誰もが息を呑んだ。
〈舞台〉を中心にふっと歓声が止み、一瞬、静まり返った。
美しい、1つの生き物のように、2人が交差する。高い蹴りが弧を描き、側頭部に叩き込まれる。
「きみの勝ちだ」
演技ではなくほんとうに、糸の切れた人形のように横向きにひっくり返った。
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