【小説】グラディアトリクス #7
そのとき、2人は自宅のリビングにいた。
オノキは安楽椅子に座って新聞を読み、イセマルは、学校で出された水彩画の課題に悪戦苦闘していた。
繰り返し塗りつぶした紙に、ついには穴が開いて、天を仰ぐ。
そこでふと、思いついたように、イセマルが聞いた。
「オノキはなんで、おれを買った?」
彼は、ちょうど救いを求めるのに、きっかけとなる話題を探していた。
それに、オノキは何でもないことのように答える。
「剣闘士にするこどもが、欲しかったからだよ」
「少年兵なら、誰でもよかった?」
「……いや」
オノキは読んでいた新聞を折り畳み、老眼鏡を外してイセマルに向き直った。
「健康診断をしただろう、病気がないことが第一だな。身長は高すぎず低すぎず、痩せすぎても太りすぎてもいない。顔かたちは、まあ化粧でごまかせるが、いいに、越したことはない。あとは、歯列が奇麗なことだな」
その点、お前はパーフェクトだ。と、よくわからない褒め方をする。
「そういうことじゃなくって……」
「ああ」
そういうことかと得心したようすで、オノキは立ち上がってイセマルに歩み寄り、やさしく抱き寄せて言った。
「愛しているぞ。息子よ」
あまりにむかっとしたので、乱暴に突き飛ばしそうとしたが、オノキはさらに力を込めて、耳元で続けた。
「おまえでなければだめだったと言われたいか?」
はっとして、次いで自分に対するいらだちが沸き上がった。オノキを引きはがそうと両手で胸を突く。
ところが、思い切り力を込めても、ビクともしない。それがまたイセマルをいらだたせた。
「オノキ、おれはあんたが憎い」
あのとき飲み下した感情が、また口の中に湧き上がってくる。
ああ、にがい。と感じた。イセマルは唾を飲もうとして、できなかった。
「おれは……おれに……」
イセマルは幼児に戻ったようにうめいた。のどは乾き、言葉がうまく出てこない。顔を見られたくなかった。逃げ出して、一人で、叫び声をあげたくなった。
だが、オノキは離してくれない。
「……おれを、ここに連れてきたあんたが憎いんだと思う」
ようやく、意味のある言葉を吐き出すと、オノキが無言で体を離し、まっすぐにイセマルを見つめた。
息苦しさから解放されると、堰を切ったように、するすると言葉がでた。
「おれはきっと、どこに行って、何をやってても、人ごろしのままだ。どうせ、まともな人間にはなれない」
「おい、よせ」
オノキは眉をひそめ、強い口調でたしなめた。瞳の奥には強い悲しみの色があった。
「よせ、馬鹿。おまえは、馬鹿なんだから、未来について知った風な口を効くんじゃない」
「でも、おれは、生きてるだけで、どんどん、おれを愛せなくなる」
「だから、俺に聞いたのか? おまえの価値を、俺に保障して欲しいか?」
オノキの表情が一層険しくなる。
「人間にとって、絶対に代えることができないものはただ1つ、自分自身だけだ」
一方で、声は、初めて会ったときのような、おびえる子どもを落ち着かせる声色になる。
「おまえは、すでにおまえの価値を知っている。産まれたときからな。おまえの生き方を、誰かが非難するかもしれない。だが、それをいいわけに自分の価値をうたがうのは、弱い人間だ」
オノキはそこで言葉をくぎり、深く息をついたあと、強い確信を響かせて言った。
「おまえは違う」
そして、ふたたび抱きしめた。
「生きること、ただそのものにルールはない。喜びと痛みがあるだけだ」
イセマルは極めて冷静に、オノキの言葉を聞いている自分に気づいた。
あれほど昂っていた感情が、コントロールできなくなっていたものが、いつの間にか、消え失せてしまっていた。
「俺は、より善く生きろとは言わん。だが、何よりも自分の痛みににぶくなるな。いつでも心の声に耳をかたむけて、それに従って生きろ」
オノキの言葉はむずかしく、半分も理解できない
抱きしめられながら、きっと、何かの映画の『パクり』だ。とイセマルは思った。
おれは騙されない。
なにせこいつは、映画のマフィアに憧れて、本当にマフィアになってしまうようなばかげた男だ。
彼にはほんとうの子供がいない。
だからまねごとをしている。
映画に出てくる父親のまねごとをして、教師のまねごとをして、善人のまねごとをして、クンフーの師匠のまねごとをして、
さびしいやつ。と見下す自分と、それに甘えて、何かの感情を処理しようとしたがる自分がいる。
「眼だ」
ようやく身体を離し、イセマルの顔を覗き込みながら、オノキが言う。
愛情と誠意と、興奮と陶酔が混じり合った灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見る。
オノキの行動は矛盾している。
彼は社会悪であり、非合法な金貸しでのし上がった男だ。
弱者を軽んじ、踏みつけにして生きてきた。
そのうえで、彼はイセマルを愛している。
無数に生まれては無数に死ぬ不運な子どもたちを憐れんでいる。
イセマルが就学し、ナイフとフォークを揃えて置くことができるようになることに幸福を感じている。
男の娘として、危険で、退廃的な世界で働かせながら。
「ほかにも候補はいた。その中から、お前に決めた。なぜだったか、それは忘れたよ。だが、眼を見て、それで決めた」
矛盾している。しかしいとおしい矛盾だと思う。
イセマルも、彼もまたオノキに矛盾した感情を抱いた。
すなわち軽蔑し、尊敬した。
嫌悪して、愛した。
◆
音が戻ってくる。
気づくと、審判がイセマルの右手を掲げていた。
客席はみな立ち上がって手を叩き、新たなヒーロー候補の誕生を祝福した。
オノキが抱きつき、キスの雨を降らせてきた。
イセマルはとまどい、呆然とした。
さまざまな感情が沸き上がり、泡のように消えていった。
思わず<舞台>を見回したが、さっきまで自分が感じていたものは、すべてが夢だったかと思われるくらい、きれいさっぱり失われていた。
終わってしまった。と思った。
(おれ、もとにもどっちゃった)
オノキに促され、拳を掲げて観客に応える。大声援が響き渡る。
イセマルはぎこちなく笑いながら、別のことを考えていた。
たとえば自分と彼とが、観客もなく、規則もない、どちらかが死ぬまで続く、そんな純粋な闘争の中で出会っていたならば。
おれは勝っただろうか、それとも敗けただろうか。
芽生えかけていたものを蹴飛ばして、ふいにしてしまったのは他ならぬ自分だった。
イセマルは涙が出る気がして、左眼を強くこすった。ところが涙は出ず、代わりに汗で溶けだしたシャドウが延ばされて、青黒い尾を引いた。
【了】
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