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【小説】グラディアトリクス #5

 時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。

「……まだ?」

 待ちきれず、かすかに体を揺らすと、オノキが両手で頭をつかみ、正しい角度に直した。
 イセマルが不平代わりにぎゅっと目をつぶる。

「動くな。……もう、すぐだ」

 試合開始前の控室で、オノキがイセマルに化粧を施している。すでに1時間近く、あまりにもたいくつで、静かな時間が流れていた。

「この化粧は、汗では落ちにくいものだが、」

 オノキの指は太く、節だらけで、爪も白く濁っているが、驚くほど繊細に動く。
 まつげの一本一本に至るまで、妥協なく、彼の剣闘士を仕上げる。

「あまり擦ると崩れるからな、〈舞台〉を降りるまで触るなよ」

 オノキが化粧を終えて、身体を傾けながら、いろいろな角度からできばえを確かめ、満足したようにうなずいた。

「これでいい」

 合図で、イセマルは閉じていた目を開けた、鏡には、自分自身の目にも、きわめて魅力的に見える美しい少女が映っていた。
 違和感と、不思議な照れくささを感じて、もぞもぞと前髪を軽く撫でた。

「気になるか?」

「……ううん、平気だ」

 なんだかかしこまった気分になり、イセマルは嘆息し、両手を揃えてひざの上に乗せた。

「じゃあ、緊張してるか?」

「へんなかんじ」

 イセマルは舌を出して顔をしかめた。

「服を着てるのに裸になってる気分だ」

「ああ、なるほど。……大丈夫、おまえならやれるさ」

 オノキが、なぜかうれしそうに眼を細めるので、イセマルはむっとして、首のうしろに乗せられた手を、体を揺らして拒絶した。

「別に、励まされたかったわけじゃない」

「そうか? そりゃ失礼」

 オノキはおどけて肩をすくめ、なおもうれしそうに笑った。

 満員の会場の中央に、イセマルは立った。
 今までの試合とはまるで違う雰囲気に、手袋の下の掌がかすかに汗ばむのを感じた。

 対戦相手が入場する。
 ゆったりとした、不思議な音楽に合わせて、熱狂する観客に笑顔を振りまきながら、軽やかに進み出る。

 〈舞台〉の中央で、両者が向き合った。

 相手はかすかに微笑んで、じっとイセマルの眼を覗き込む。
 思わず息を飲んだ。
 心の中身まで覗かれてしまうような気がして、目をそらしそうになったが、どう考えてもそれは気圧されてるってやつだ。と思い直し、逆にまっすぐ見つめ返す。

 エメラルドグリーンの涼やかな瞳は、吸い込まれそうなほど大きい。
 心臓が、いままでにない速度で脈打った。

 開始の鐘が鳴る。
 彼はイセマルの緊張をほぐすようにゆっくりと立ち上がり、徐々にテンポを上げて行った。

 ところが、序盤、イセマルのパンチが強く、相手の顎を捕らえた。
 ように、客席からは見えただろう。

 男の子がわずかによろめき、観客からはどよめきが上がった。

 しかし、打った側には、ほとんど感触がない。当たった瞬間に首をひねって躱したのだ。

(当たったフリだ)

 イセマルは、急激に血が冷えていくのを感じた。
 結局、今日もいつもと同じなのか、と、落胆する自分に気づき。驚いた。

(こんなの茶番だ。分かっていたことだろうに)

 相手の男の子は頭を振ってダメージがないことをアピールする。そしてすばやく反撃をする。
 だが、さきほど一撃が影響して、初撃ほどの速さはない。
 ように、見える。

(でも、動きが鈍ってる。偶然、いい場所に入ったのかもしれない)

 冷たくなっていた血が、わずかに熱を持つ。思わずイセマルが半歩、前に出る。
 その瞬間、相手のパンチが鼻っ面を引っ叩いた。

 速さも鋭さも、すでに戻っている。

 虚を突かれてイセマルの前進が止まる。二発目はかろうじて肩でブロックする。

 鞭のようにしなる腕が、中った瞬間にスナップする。
 派手な音のわりに、ほとんどダメージはない。

 だが、小気味よい打撃音と同時に、イセマルの顔が大げさに跳ね上がると、観客たちは思わず前のめりになり、拳を突き出して声を上げた。

(ちぇっ、ぜんぜん、よゆうだ。騙された)

 ダメージはないが、打たれてばかりではいられらない。
 ガードを上げると、待ってましたと言わんばかりに低いキックが放たれた。

 肉と肉がぶつかる音が会場に響き、最前列の婦人が思わず顔を覆う。
 だが響いたのは、相手が自分の脚を叩いた音だ。と、常連の紳士が、訳知り顔で解説する。

 みぞおちの下のあたりが、さらに熱くなっていくのを感じた。
 「冷静になれ」と自分に言い聞かせたが、むだだった。

 落ち着く暇などなく、次の一撃が飛んでくる。なんとか躱し、反撃する。躱される、こちらも躱す。
 相手はもっと速度を上げる。イセマルがなんとかついていける速度、それでもまだ、余裕を残しているように見えた。

 一撃一撃に観客が感嘆の息を漏らす。

 熾烈な攻防、互角の闘いに見えるだろう。
 しかしその実、イセマルには、打つタイミング、躱すタイミングさえ、誘導されているように感じられた。

(くそ)

 と心の中で毒づいた。

(遊ばれてんだ。おれ)

 イセマルは、やや強引に前進し、大ぶりのパンチで無理やり相手を下がらせた。
 相手は驚く様子もなく、冷静に距離をとる。無理に打ち合いを続けようとはしない。

(しきり直し)

 相手の攻め気がなくなったことにイセマルは気づく。そういった空気を感じ取るのが、彼は抜群にうまかった。
 今日の相手は、試合をあっという間に終わらせたりはしない。互いに見せ場を、観客を盛り上げる『タメ』を作る。

 客席からなら不自然に感じられないくらいの時間、けれど、対峙している自分には、はっきりとわかる。
 正直、おもしろくはない。

「ふーっ」

 イセマルは深く息を吐いた。
 と同時に、ガードに上げていた両腕をだらりと下げた。

(決めた)

 下げたまま、1歩、無造作に距離をつめた。
 相手に一瞬だけ、とまどいの表情が浮かぶ。

(あんたのダンスには、つきあわない)

>>グラディアトリクス (6)

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