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なぜクトーニアンを殺さなかったのか

 リングの中央で、半裸の男が2人、がっちりと組み合っている。
 したたる汗と血が、マットの上に、大きな血だまりを作っている。
 観客はいない。
 否、いなくなっている。
 打ち捨てられた鞄、片方だけの靴、踏みつけにされた新聞……それらの痕跡が、ここに超満員の観客がいたことを物語っている。
 今は、誰もいない。
 がらんとした会場に、男たちの荒い息遣いと、リングの軋む音が、惨憺として響いている。

 ごう……ごごう……。

 地震でリングが傾き、男たちがわずかによろめく。
 自然現象ではない。大地の下に、何かがいる。確信に近い予感がある。志村の背中を、粘ついた汗がつたった。それは近づいてきている。彼が知る如何なる猛獣とも違う、醜悪な怪物が、遠くからこちらを狙っている。

(邪魔をしてくれるなよ……)

 志村はその首元を押さえつけたまま、相対する男を睨みつけた。互いの額が擦れ、ごり。と音をたてる。
 顔中から血を滴らせながら、男の眼には、闘志と狂気が燃えている。

 男の技を、志村は知っている。
 アマゾンの地下深くに封じられた邪悪なるもの、その信奉者たちに伝わる忌まわしき武術だった。人体を破壊し、その機能を喪失させるための、あまりに実用的な手法。

 すなわち、クトーニアン柔術。

――死ね。志村。
――柔道家の志村竜人を、今日ここで殺せ。

 "蛇の穴スネーク・デン"での修行が最後の段階を迎えたとき、師は自らの仮面を、志村に手渡して言った。

――技を捨て、名を捨て、命を捨て、戦士ルチャドール、龍神マッポー・ドラゴンとして戦え。

――投げ技ランセは門、固め技ジャベは鍵。
――これより教える2つの門が、おぬしを龍へと変える。

 ごう……ごう……。

 また地震の予兆がある。志村はそれを待った。次の大きな揺れと同時に、仕掛ける。
(俺はこの男を殺す。殺さねばならん)
 マスクの下で、志村の瞳にも、冷たい狂気の火が灯った。

(つづく)

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