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【小説】8.26 / Dream Match (1)【イーロン・マスクvsマーク・ザッカーバーグ】

1.

 2023年8月26日、日本、東京ドーム。

 男が2人、誰もいない廊下を歩いている。
 誰であろう、Meta旧FaceBook会長兼CEOのマーク・ザッカーバーグと、X旧Twitterの執行会長兼CTOのイーロン・マスクその人である。
 この大SNS時代の寵児にして、世界有数の資産家である2人が、肩を並べて闊歩している。

 異様な光景であった。

 男たちは、いずれも上半身裸である。鍛えられた肉体を晒し、誰もいない東京ドームで、トランクスとレガース、シューズだけを身に着け、悠々と歩いている。

「今頃、インターネットではきっと、誰もが私たちを腰抜けと笑っているだろう」

 マスクはスマートフォンを取り出し、タイムラインを確認した。
 Xが提供するおすすめタイムラインには、あくせくフォローを繰り返さなくても、ユーザーが望む最適な投稿が常に表示される。そこで繰り広げられる嘲笑と中傷の数々は、彼が想像した通りのものだった。マスクはため息をつき、彼に低俗なジョークと侮蔑的な画像を送り付けた数百名のアカウントを同時に凍結させた。
 創造性に欠けるものたちは、彼が望む清潔で美しいXには不要の存在だ。

「思ったとおり、2人ともリングに立つ度胸はない男だったと」
「フフフ……」

 ザッカーバーグが笑った。彼もまた、彼の愛するSNSで、同様の処置を施したところだった。
 マスクがTwitterをXと改称し、ザッカーバーグが「健全なTwitterの必要性」を主張して以来、彼らはそれぞれのSNS上で、挑発的な応酬を繰り返していた。互いのサービスを貶し、どちらが優れているのかを主張しあい、マスクが直接対決に向けてウェイトトレーニングを積んでいることをポストすれば、ザッカーバーグは彼がいつでもケージ・ファイトに挑む準備があると返した。
 2人の大富豪がリアルファイトを行うしれない。大衆は面白がって、2人のどちらがより強い男であるかを議論した。体格で勝るマスクか、年齢の若いザッカーバーグか。試合が実現する可能性は極めて低いと思いつつ、新時代の剣闘士たちがどんな戦いを繰り広げるのかを想像して楽しんだ。
 やがて時間がたち、どうやら試合が行われないことがわかると、大衆はやや落胆しつつも、提供された次のトピックについておしゃべりを始める。彼らにとって、実際に戦いがあるかどうかはさほど重要ではない。そうでなくても毎日、確認しきれないほどの情報がストリームには溢れているし、新しい話題には事欠かないからだ。

 しかし、これから2人は戦う。
 戦おうとしている。

「現代社会のほとんどの不快から解放された我々が、それだけの力を持った我々が、自分自身の意志で、痛みに向き合うという矛盾。彼らには理解できまい。いや……」

 2人が同時に、スマートフォンを投げ捨てる。音を立てて地面に落ち、画面が砕ける。男たちは、大観衆の前で、あるいはライブストリームを通じては、戦うことを選ばなかった。それがどれほどの富を産む行為であるかを知りながら、男たちはアメリカから遠く離れた島国で、誰にも知られずに戦うことを選んだ。

「……我々の気持ちを、我々以外の誰かが理解できるかな」
 そう呟いて、ザッカーバーグが苦笑した。マスクもまた笑んだ。不思議な気持ちだ。かつてSNS上で対峙したときほど、この男のことが憎くはない。
 好ましい、とさえ思う。
 心からの笑みが浮かんだ。
 この戦いの結末によっては、どちらかが死ぬことになるかも知れないというのに、彼の心は、驚くほど穏やかだった。

 その様子を、廊下の向こうから、覗き見る影があった。

 サボってトイレにこもり、TwitterXをしていた清掃員の青年だった。他者から認められたいという思いは人一倍あったが、仕事にはあまり熱心でなく、勤務中にこうしてネットサーフィンに興じることも少なくなかった。流行のゲームの攻略情報をいち早く転載したり、話題の投稿をリツイートポストしたりして承認欲求を満たしてきた。そういう性格だったから、動画投稿者として身を立てていこうと考えたときも、長続きしなかった。

 そんな彼が、人知れず無人のリングへと向かう、マスクとザッカーバーグの姿を見た。

 チャンスだと思った。この大事件をネットに投稿すれば、世界中に拡散され、フォロワーから送られた『ちょwお前のツイート伸びすぎww有名人じゃんwww』という言葉に『まじ通知止まらんwww』と返すことができるだろう。腕を伸ばし、並んで歩く2人の姿をカメラに収める。震える指先で投稿ボタンをタップする。

『マーク・ザッカーバーグとイーロン・マスクが東京ドームにいるwwwこれから戦うらしいwww』

 青年は待った。リツイートポストの通知を。
 しかし、一向に通知は来ない。1秒後に別の誰かが投稿したつけ麺の画像は、もう3ファボいいねされているというのに。

「な、なんでだよ……!」

 投稿から10秒がたち、30秒がたった。
 伸びない。通知が来ない。
 青年は絶望した。 
 だが、当然だ。彼が今まで得てきた他者からの反応は、すべてバズったツイートポストに訳知り顔で返信クソリプすることで得られてきたものだったからだ。彼個人が持つ発信力など、この大SNS時代においては塵に等しいものだった。唯一、人によっては興味を抱いたかもしれない2人の写真さえも、世にはびこるフェイクAIの1つとして、誰の目にも留まることすらなく、タイムラインを流れていった。
「畜生……畜生……ッ!」
 青年はがっくりとうなだれ、その場にうずくまり、拳で床を叩く。
 ついさっきまで、彼にとって、インターネットの力とはすなわち、己の力に他ならなかった。バズツイートポスト返信クソリプすればTwitterXで閲覧数を稼ぐことなど造作もなかったし、YouTubeの動画を見れば最新のトレンドにいくらでもアクセスできた。Amazonで安く買った商品をメルカリで転売し、Google検索ができるだけで職場のほとんどの人間に知識マウントを取ってきたのだ。
 しかし今、この瞬間、広漠なネットの海に彼が起こすことができた波はあまりも小さかった。大企業の不祥事、有名人の不倫、水族館のラッコたちがおかれた窮状……彼が落とした一滴の雫は瞬く間に他の大きな情報の渦に呑まれて、消えた。
 0リツイートポスト、0ファボいいね、それが彼自身の言葉つぶやきに下された現実の評価だった。人生で初めて己の非力さと真っ向から向き合い、青年は涙した。他人の褌で相撲をとってきたツケが回ってきたとでもいうのか。家に帰ってあたたかい布団で眠りたかった。

 だが。と思った。2人は廊下を進み、まもなく無人のリングに辿り着くだろう。そして戦い始める。始まってしまえば、もはや誰にも止められない。2人の戦いは、人知れず終わり、どちらが勝ったのかを知るのは自分だけになるのかもしれない。
 そんなことがあっていいだろうか。
 否、よくない。
 気づけば青年は、2人の脇を駆け抜け、前に回り込んでいた。諸手を拡げて大の字になり、行く手をふさぐ。

「誰だね。キミは」

 イーロン・マスクが訝し気に訪ねた。大きい。ネットで見た画像よりも、はるかに大きく感じる。2メートルはゆうに超えている。隣に立つマーク・ザッカーバーグも、マスクとは頭1つ分の差はあるが、185センチ以上はあるだろう。
 そして、分厚い。その身体には筋肉の分厚さがあった。格闘家のものではない。いたずらに筋力トレーニングを積んだ人間のそれとも違う。彼らがこれまで携わってきた起業、投資、あるいは開発、経営……その経験が積み上げられることによって形作られた、闘う男の肉体だった。

「そ、その……」
「私たちの邪魔をするのかね? 総資産合わせて2500億ドル超の私たちの?」

 マスクから発せられた言葉と、その重圧プレッシャーに、青年はがっくりと膝をついた。先ほどの悔しさとは違う、恐怖からの涙があふれた。股間に湿った感触が広がる。失禁している。
 青年の経済状況は、日本の若い男性としては極端に良くも悪くもない。定職にはついているが高給取りとは言えず、実家暮らしだが浪費癖があり、貯金はほとんどない。
 だが、イーロン・マスクとマーク・ザッカーバーグに年収煽りをされて、膝をつかずに済む人間がどれだけいるだろうか? ほとんどはその圧倒的な資産力を前にして、訳もわからぬまま原子崩壊を起こすだろう。

 もうだめだ。と思った。しかし、そんな彼の意思とはうらはらに、その口からは小さな呟きが漏れた。
「……し、試合……ッ」
「ん?」
 自分の言葉は、誰にも届かないかもしれない。何も起きないかもしれない。彼らと違い、会社を傾かせ、政治家に冷や汗をかかせるほどの力はないかもしれない。
 ないかもしれないが。言わねばならない。
 ここで何も言わなければ、自分は本当に何者でもない人間になってしまう。遠く離れた人間に言葉を届けられないのならば、今ここにいる人間に伝えなければ、もはや、生きているとは言えまい。
 ほとんど生存本能に突き動かされるかたちで、青年は己奮い立たせ、立ち上がった。脂汗にまみれた顔を歪ませ、息を大きく吸い込んだ。興奮と緊張で全身が震え、喉からは呼吸とも嗚咽ともつかない喘ぎ声が何度も漏れた。

「アンタら……なんで勝手に試合するんだよォッ!」

 青年は叫んだ。涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、甲高く裏返った情けない声で叫んだ。大声を出すこと自体、久しぶりのことだった。たった一息で、喉が裂けそうになる。
 それでも、彼は叫んだ。

「マーク・ザッカーバーグとイーロン・マスクが人知れず試合をしていいワケねェだろォォォッッッ!」

 ぶーぅっ。

 青年のポケットで、スマートフォンが震えた。

 ぶーぅっ。ぶーぅっ。ぶーぅっ。ぶーぅっ。

 リツイートポストを告げる音が、いくつも折り重なり合い、ドームの廊下に響き渡った。

2につづく

※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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