強くなりたいのは鈍くなりたい、という意味だときづいたはなし。
はじめまして、こんばんは。
おねたんうさぎ といいます。
こちらでは、私の思ったことや最近ハマっていることを書く予定です。
よろしくお願いします。
さて、自己紹介が長くなりましたが。
ここからが今回のテーマの 強くなりたいのは鈍くなりたい、という意味だときづいたはなし。について記していきますね。
強くなりたい、と願う人は多いかもしれません。
感受性が豊かな繊細な人は特にそう願っているように思われます。
感受性が豊かで傷つきやすい内面を持っているから、他人のきもちだけじゃなくて自分自身のきもちにも気づきやすいのだと思います。
まず、私がそうです。
自分自身のくろーいきもちに気づいて、それから目をそらさずに向き合ってしまって疲れちゃうのです。
たぶん、ほかの繊細な人もそういう人が多いのじゃないかな?と思っています。
いろいろ気づきすぎて疲れて 鈍くなりたい、強くなりたい、って願ってしまうのではないでしょうか。
少し話が逸れますが、私の友人で発達障害持ちの人がいて。
その友人と話していて、友人は『もし、発達障害が治る薬が出たら私飲んじゃうな。発達障害治したい』といっていました。
ですが、私はHSP持ちでもあり発達障害持ちでもあるのですが、治したいとは思いません。
たしかに、繊細すぎたり大きい音が苦手だったりして生きづらいです。
ですが、道端に咲く花をみて感動したりするのも悲しいきもちになっている人にできる限り寄り添ったりできるのも映画を観てボロ泣きするのも、発達障害を持っているから福祉サービスを受けたりできるのも何より友人に出会えたこともぜんぶ私がHSPで発達障害持ちだったからです。
HSPも発達障害も私のたいせつな一部です。
だから、私はたとえHSPや発達障害が治る薬が開発されても飲まない、飲みたくない。
たとえ鋭くていろいろ気づいて疲れることがあっても、発達障害で生きづらさを感じても。
鋭い弱さを失いたくない。
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