裸正門
ある日の暮れ方の事、一人の男子学生が大学正門の下で雨が止むのを待っていた。
門の下に人は少ない。彼の他には誰かと待ち合わせをしていると思しき男子学生が一人と、先刻から彼同様に何をするでもなく雨を眺めている女子学生が一人いるのみである。人通りが少ないわけではないが、その多くは傘を差しており、門の下の彼らには目もくれずその前を横切って行く。もう何人の学生を見送ったかわからない。
作者は初め「男子学生が雨が止むのを待っていた」と書いた。しかし、厳密には雨が止むのを待っていたわけではない。平時であれば駅までの五分かそこらの道のりで雨に濡れることなど気にするような人間ではなかった。彼はある女子学生の下宿に招かれていたのである。詳しい経緯は省くが、彼がそこに行くことで、あまり褒められたものではない形で性交渉をすることが確実なのである。彼はそこに行くべきか否か、また行きたいのか否かをずっと考えており、雨にかこつけて悩む時間を稼いでいたのである。だから、「男子学生が雨が止むのを待っていた」 というより「自らの進退を決めあぐねている男子学生が雨が降っているのをいいことにモラトリアムに興じていた」とでもいう方が適当である。
彼は恋愛に関して不純でいることを嫌った。恋人間で当然のようにする諸事はきちんと恋人関係になってからすべきであるという信念をもっていた。また理性が股の間から生じる不埒な感情に侵された者たちのことを異常なまでに嫌っていた。
その一方で、彼は人一倍色を好み、冷静に異性を品定めし、幻想を抱いていた。彼にはいわゆる「経験」は無い。その何の役にも立たない純潔を早く捨て去りたいと願ってやまなかった。要するに放埒な学生を憎む感情は、単に満たされない自分に対する慰めであったり、色欲の湧き上がるままに振る舞いたいという気持ちの裏返しであった。
彼の望み通りの恋愛は、まず相手を見つけるところから始め、そこから途方もない段階を踏んでようやく実現させることができる代物である。彼の先走る助平心からしたら、それは永久に来ない未来に思えた。
今すぐにでも誰かと交わりたいと日々悶々としている中、幸か不幸か、その好機は目の前に転がっている。しかし、「自分が嫌悪し、嘲笑してきた破廉恥性欲怪人になる」ことに対して、まだ積極的に肯定するだけの勇気を出せずにいた。
彼は大きなくしゃみをして鼻をすすった。約束の女子学生がそろそろしびれを切らして電話を掛けてきてもおかしくない。待ち合わせをしていたと思しき男子学生もどこかへ行ってしまった。
その時、先刻から傍で雨を眺めていた女子学生が彼に話しかけてきた。
「さっきから何してんの」
彼は初めてその女子学生の顔を見た。垢抜けた美人顔であるとは思ったが、大学でろくに勉強もせずに遊び呆けていそうな雰囲気を纏っていたため、彼の好むタイプではなかった。
「雨が止むのを待っています」
「ふーん」
そうして数秒の沈黙があった後、女子学生は何の脈絡も無く、
「今からホテル行かない?」
と言った。
これには思わず頓狂な声が漏れた。
「何を言ってるんだあんた」
「今日は『そういう』気分なの。いつもは友達に相手してもらうんだけどね、今日はたまたま誰もつかまらなかった。ご飯とホテル別で一万でいいからさ」
この女子学生の一言一言が耳に届く度に、この女に対する嫌悪感が湧き上がってきた。──いや、この女子学生に対してと言えば語弊があるかもしれない。むしろ、この世界の全ての淫乱に対する反感が一秒毎に強さを増して来たのである。この時、誰かが彼に、さっきまで考えていた、禁欲をするか発情期の猿になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく彼は、何の未練もなく、禁欲を選んだ事であろう。それほど、彼の色欲を嫌悪する心は、ハリウッド映画の爆発よろしく、勢いよく燃え上り出していたのである。
「お断りだ、みっともない雌犬め! お前たちのような低俗な輩にはわからぬだろうが、人間には理性がある! そのような性欲のままに生きるなど、人間ではない。そう、言うなら発情期の猿だ!」
彼は自分が先刻まで思い悩んでいたことなどとうに忘れていた。
女子学生は何も堪えた様子もなく、落ち着き払った様子で応えた。
「理性って何? したいことを我慢することが立派なの?」
「誰もが相手を選ばずに性交渉したいと思っているというその前提がおかしいのだ。私は恋人と然るべき過程を経た後の交わりにしか興味はない」
「嘘ばっかし」
彼は図星を突かれたことを認めたが、面には出さなかった。
「貴方が何と言おうと、人間の三大欲求の一つは性欲よ。口ではどれだけ誠実なことを言ってても自分好みの人を見たら内心したいと思ったことがあるに決まってる。別に恥じることじゃないわ。その方が健全だし、自分は誠実であることを周りにアピールすればするほど、その虚像を演じなくてはいかないような気がしてきて苦しくなるじゃない? それにこの国は経験の無い人間の立場がすっごく低いと思わない? ただ経験が無いだけのことが、年を重ねる毎にまるで欠点のように扱われ、挙句の果てには人格まで否定されたりしてるのをよく見るわ。だったら尚更、自分の欲望に嘘をつく必要ないとあたしは思う。機会があるならすればいいし、したいと思ったら機会を作ればいい。あたしを罵る権利なんて誰にも無いわ」
女子学生は、大体こんな意味のことを言った。彼は右頬のニキビを気にしながら、冷然としてこの話を聞いていた。
しかし、これを聞いている中に、彼の心には、ある勇気が生まれてきた。それは、さっき女子学生に話しかけられるまで、この男には欠けていた勇気である。彼は、禁欲をするか性欲の化身になるかに、迷わなかったばかりではない。その時のこの彼の心持ちからいえば、禁欲などという事は、ほとんど考える事さえ出来ないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか。」
女子学生の話が終わると、彼は嘲るように念を押した。
「なら俺が今からゆきずりの女とやっても、誰も俺を馬鹿にすることはできないんだな」
「そうね」
「だが、俺には先約がある。あんたは適当に誰か捕まえるんだな」
そう言われた女子学生は何も答えず、また表情一つ変えずに、正門下を去っていく彼を見送った。そして、また退屈そうな表情で上がらぬ雨を見つめた。
大学前通りの正門から数十メートルのところにある脇道に入れば、彼と約束をしていた女子学生の下宿がある。
呼び鈴を鳴らすと、部屋の奥から玄関に向かってくる者の足音が聞こえた。彼は緊張した面持ちで手汗を拭いながらドアが開けられるのを待った。
カチャリと音がしてドアが開けられると、中から体格の良い、強面の男が現れた。どこかしらの体育会の学生であろうか。
「誰だお前?」
まるでこの家にいることが当然であるかのような振る舞い、明らかに敵意剥き出しな声色、そして何より、二人きりで会うことになっていた部屋に自分以外の男がいるという状況から、彼は瞬時にろくな事にならないことを理解した。また、それと同時に脱兎の如く逃げ出した。
「おい、待て!」
強面の男は何かしらのスポーツで培った瞬発力で、逃走を図る彼の奥襟を掴んだ。が、彼はトカゲの尻尾の如く、恐るべき早さで着ていたシャツを脱ぎ捨てた。強面の男は勢い余って尻もちをついた。彼は自分のやってのけた芸当に感動しつつ、雨の中を駆け出した。
そろそろ場所を変えようかと考えていた正門下の女子学生が、上半身裸の彼が正門前を走り過ぎるのを見たが、その後の彼の貞操の行方は誰も知らない。
了
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